Vol.3|世界における人的資本の文脈
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岩本 隆Takashi Iwamoto
慶應義塾大学大学院経営管理研究科 特任教授東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ株式会社、日本ルーセント・テクノロジー株式会社、ノキア・ジャパン株式会社、株式会社ドリームインキュベータを経て、2012年より現職。一般社団法人ICT CONNECT 21理事、一般社団法人日本CHRO協会理事、一般社団法人日本パブリックアフェアーズ協会理事などを兼任。
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大島 崇TAKASHI OSHIMA
株式会社リンクアンドモチベーション モチベーションエンジニアリング研究所 所長京都大学大学院修了後、大手ITシステムインテグレーターを経て、2005年、株式会社リンクアンドモチベーションに入社。中小ベンチャー企業から従業員数1万名超の大手企業まで幅広いクライアントに対して、組織変革や人材開発を担当。現場のコンサルタントを務めながら、商品開発・R&D部門責任者を歴任。2015年、モチベーションエンジニアリング研究所所長に就任。2022年、執行役員に就任し、モチベーションエンジニアリング研究所を統括。
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林 幸弘YUKIHIRO HAYASHI
株式会社リンクアンドモチベーション モチベーションエンジニアリング研究所 上席研究員
「THE MEANING OF WORK」編集長早稲田大学政治経済学部卒業。2004年、株式会社リンクアンドモチベーション入社。組織変革コンサルティングに従事。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所の招聘研究員として、日本で働く外国籍従業員のエンゲージメントやマネジメントなどについて研究。現在は、リンクアンドモチベーション内のR&Dに従事。経営と現場をつなぐ「知の創造」を行い、世の中に新しい文脈づくりを模索している。
世界の潮流から、人的資本経営の未来を模索する。第3回となる今回は、主要KPIであるウェルビーイング、コグニティブ・ダイバーシティについて触れるとともに、CHROが果たすべき役割について議論を交わしていく。
ひとりひとりの人材に幸福なキャリアを示す。
林
前回は人的資本経営の主要KPIである従業員エンゲージメントに焦点を当ててきました。今回は、その他の主要KPIについて深掘りしていきたいと思います。まずは「ウェルビーイング」。このワードは、コロナ禍を機に盛んに叫ばれるようになりましたね。 |
岩本
フィジカル・メンタルを含めた健康に加え個人の幸福感といったニュアンスが強く込められています。特に重要なのが、個々のキャリア充足を支えていくことですね。急激な変化の中で、リモートで仕事をするようになり、大きなストレスを感じるようになった。そして、「このような人生でいいのか」と自分のキャリアを見直すようになる。海外では「バーンアウトシンドローム」などといわれていますね。企業がそこまでするのかという考えもありますが、こうした個人の想いを支え、この会社にいて幸せになれるのかを提示していかないと人材はどんどん辞めていくし、優秀な人材も採用できなくなる。この点は差し迫った課題だと思っています。 |
大島
コロナ禍以前は、従業員のプライベートに企業は口出ししてきませんでしたよね。ただ、現在は、企業の外部環境だけでなく、個人を取り巻く環境も大きく変わりました。企業はこの2つの変化に対して、マネジメントしていくことが求められるようになったわけです。ひとりひとりに幸せな人生を歩める可能性を提示することって、ぬるま湯のように感じかねないけれど、今はかつてのように「好きにやれよ」では済まない時代。その変化を敏感に察知し、今までのままでは済まないと気づいた企業が「ウェルビーイングは大事だ」と言ってくれていれば、うれしいですね。 |
林
VUCA※の時代といわれて久しいですが、それはビジネスの世界だけでなく個人にも及んでいるということですね。企業の従業員に対するアプローチも当然、射程が広がり、人生そのものとも言える概念を持って、向き合わなければいけないのだと思います。 ※VUCA:Volatility(変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)、これら4つの頭文字をつなげた造語。現在の社会や経済情勢が予測困難な状況に直面しているという時代認識を表している |
大島
これはとある大手企業の経営者が仰っていたことなのですが、「CHANGEのGがCになれば、CHANCEになる。そして、GをCにするには、Gの文字から『T』のような部分を取る必要がある。そのTとは『TabooのT』だ」と。従業員の声を聞く。その幸福度合いにまでコミットする。今まで聖域とされていた部分に踏み込み、誠実に従業員に向き合っていくスタンスが問われていると感じます。 |
インクルーシブ思考で組織力70%アップ?
林
次は、3つ目の主要KPIである「コグニティブ・ダイバーシティ」について深掘りしていきましょう。『人材版伊藤レポート』でいうところの「知と経験のダイバーシティ」ですね。 |
岩本
性別や年齢といった表層的属性の多様性を指すのが「デモグラフィック・ダイバーシティ」。思考特性や職務経験、ワークスタイルといった認知的な多様性を指すのが「コグニティブ・ダイバーシティ」です。アカデミアの世界では、前者は「差別をなくす意味では重要だけれど、企業の業績に直接は関係しない」という論調が強くなっています。ESG投資におけるメトリックの定義などを行っているVRF(Value Reporting Foundation)という団体の研究においては、人的資本経営において企業文化が重要であるという指摘がなされ、その中でフィナンシャルインパクトの強い5つの要素の一つして「コグニティブ・ダイバーシティ」の重要性を謳っています。そのほかに挙げられた採用力、企業の魅力、差別のない環境、社会や顧客への貢献といった要素と掛け合わさる企業文化を持っていれば、イノベーションの可能性が高まっていくということです。 |
大島
私自身、10年以上前から女性活躍推進、ポジティブアクションといったテーマで相談を受けてきましたが、「デモグラフィックな部分はもちろん大事だが、他の多様性が重要である」ことを強く感じていました。例えば、日本で特定のポストに人材を招聘しようとなった時に「水が合いそうか」「革新を起こしてくれそうか」「出る杭タイプなのか」などと、肌感覚みたいなものを大切にする傾向がありますよね。思考特性といったテーマなどを見ると、特性や個性を加味していく潮流は、日本にとってなじみのあるものなのかもしれませんね。 |
岩本
「コグニティブ・ダイバーシティ」の研究はいろいろなところで進んでいます。面白いのは、デロイトがまとめた研究成果。「コグニティブ・ダイバーシティ」が進んだインクルーシブな組織がもたらす効果を発表しています。イノベーションが20%高まり、リスクが30%下がる。フィナンシャルターゲットに対する影響が2倍になる。インクルーシブなリーダーがいる組織のパフォーマンスは70%向上するなどの興味深い結果が出ています。 |
林
ラグビー日本代表のスローガン「ONE TEAM(ワンチーム)」ではないですが、多様な個性が噛み合っているチームって、これくらいのパフォーマンスを出す感覚があります。 |
大島
組織のパフォーマンス表を見ると、サイコロジカル・セーフティが入っていますね。確かに、心理的な安全性が担保されなければ、多様な個性も活かされません。 |
林
ただ、「これが大事だ」「確かにそうだ」と思っても、なかなかすぐには変えられないジレンマもありますよね。 |
岩本
日本企業にありがちな忖度文化が根強いと、インクルーシブな組織にはならないんですよ。上司の顔色を伺うのではなく、ガツガツ本音をぶつける。上司もそれを受け止めてくれるという環境がなければいけません。 |
林
岩本先生は、外資系の企業を中心にキャリアを積んできた。やはり、違いというのは感じますか? |
岩本
外資系企業では「自分にできないことをできる人を雇え」と言われると、前回もお話ししました。それは、日常のコミュニケーションにも反映されます。会議や報告において「上司のわかっていることを言う」のがありがちな日本企業。対して、「上司のわからないことを言う」のが外資系の企業です。異なる視点や発想を受け止めて、それを思考し、議論し、新たなアイデアが生まれる。そうしたカルチャーが当たり前になっているんです。上司に同調し、指導される。「気の利いたアドバイスができた」と上司を気持ち良くする。そんなコミュニケーションやリーダーシップから、新しいものは生まれませんよ。 |
林
同質性の強い企業文化を変えていく。異質を取り込んでいく。上司としては、感情的に難しい部分があるかもしれませんね。 |
大島
日本は新卒一括採用ですから、右も左もわからない若手を育てるというプロセスが存在します。すると、「あの人にはお世話になったから」と余計なことを言えなくなる。親子関係みたいなものが自然とでき上がるんですよね。ただ、ミクロな世界を見てみると、インクルーシブなリーダーって必ずいるんですよ。そういう人は自分からメンバーのところに降りてくる。それは、いわゆるサーバントリーダーシップと呼ばれるような感覚ではなく、「マネージャーはただの役割であり、メンバーの成長を支援してパフォーマンスを出してもらうことが仕事だ」というインクルーシブな思考が強いからなんですよね。 |
林
会社や上司から機会をつくり、提示することはもちろん大事ですが、メンバー個々の意識を変えていくことも大事ですね。リンクアンドモチベーションでは、自らのキャリアは自らつくる「アイカンパニー」という思想がありますが、日本はそうした意識がまだまだ弱い。会社に入って、決められたルートをぐるぐる回るだけのケースも少なくないですから。今、求められるリスキルも、個人が自らの意志で行っていくことが大事なのだと思います。 |
岩本
そうですね。私自身、忖度文化の強い会社で仕事をしていたこともあるのですが、上司のご機嫌をとるではなく、上司を使おうと考えていましたよ。そんな感覚を持っていれば、アクションもアウトプットも変わってくるでしょうから。 |
株式会社の原点に返り先進国の経営を。
林
ここまで人的資本経営のKPIについてお話を伺ってきました。最後のテーマは、その実現に向けたCHROの役割についてです。 |
岩本
人材投資をデータ化し、議論できる素地をつくり、経営会議とは別にCEO、CFOと密になって連携していくことですね。海外において、この体制は「G3」と呼ばれ、多くの先進企業で実践されています。表「G3が密に議論すること」はこの体制における議論を私なりにマトリクス化したものです。業績面を縦軸に取り、人材投資面を横軸に取りました。人材投資を数字で語れれば、CFOときっちり議論することができるようになるんです。 |
大島
すごく実感値がありますね。Cの状態で調子に乗ると、「とりあえず短期の営業に行って来い」みたいなことを言われて(笑)。この図はミクロなマネジメントにも当てはまりそうです。DからBへの道は「とにかくやれ」というハラスメントの連続。茨の道だと言えそうです。 |
岩本
ビジネス・スクールに来るビジネスパーソンは、Bの状態にあることが多いんですよ。ビジネスモデルが成熟して利益は出ているのだけれど、仕事が作業になっている。業績は良く、給与はいい。留学もさせてもらえる。でも、肝心の仕事がつまらないと言う。だから、MBAを取得した後で、ベンチャーを起ち上げたり、転職したりする人が多いんです(笑)。Aの状態に持っていくには、実はCが近道。Bの状態からだと、人のマインドを変えていかなければいけないので難しいという。 |
林
人材投資の重要性がわかりますね。 |
岩本
そうですね。将来の人材ポートフォリオが明確であれば、そこに対してどれだけ育てられているかを見るのでより良い投資をしていけるはず。ただ、そのポートフォリオすらないようだと、なかなか厳しい状況だと言えます。 |
大島
企業の創業期がCの状態。そして、そこからAの状況に至り、ビジネスモデルが成熟してBの状態へ。で、そこから競合なども増えてDの状況になって……。成熟した大手企業はDがデフォルトな気がしますね。ただ、Aの状態にたどり着いて、そこで終わりじゃないんですよね。この図の右下に強烈な引力が働いていますから(笑)。 |
林
ありますね。ものすごい引力が(笑)。もっとお話を聞きたいところですが、もう一つのトピックスに話題を移します。海外ではHRBP(HR Business Partner)という役割の人を各事業部門に置くことで、人的資本経営の浸透を図っているそうですね。これは、従来の部門人事とどう違うのでしょうか。 |
岩本
HRBPは事業部目線ではなく、全社的な視野で判断をします。事業部の視点に立つと、ある人材が別の部門でより価値を発揮するとわかっていても、そこに配置し、機会を提供することができないものですよね。CHROの目線で人的資本経営を牽引していく。そこが、部門人事との大きな違いです。 |
林
なるほど。そもそもの役割が違うのですね。では、最後に全3回の対談を終えて、総括をお願いしたいと思います。 |
岩本
現在は人材投資をデータ化し、科学的な経営を行えるようになりました。スポーツの世界を見てみても、データドリブンでいきいきと活躍するチームや選手が増えていますよね。戦後から劇的な復興を遂げてきた日本のビジネスや経営は確かにすばらしいものですが、精神論や従来の常識にとらわれたままではいけません。日本ははるか昔に先進国になったんです。だからこそ、すべての従業員をいきいきと活躍させる「先進国の経営」をしていくべきだと思います。 |
大島
私は株式会社の基本に立ち返ることだと思います。社会やステークホルダーに利益をもたらすことができなければ、その企業は解散した方がいいということ。第1回で岩本先生から「人的資本ROI」という指標についてご教示いただきましたが、それを下回るようならやめてしまおうと。世界を良くしよう、企業に関わる人すべてを幸せにしようという原点に立ち返れば、メンバーシップ型か、ジョブ型かといった方法論に陥ることはないはず。自分たちの経営の強みに新しい潮流を組み込むことで、Howに落ちない取り組みが実現するのではないでしょうか。 |
林
意味のある社会を実現していくうえでは、どこで多様性を取っていくのかというのも重要だと思っています。例えば、画一性の高い組織があってもいいし、多様性に満ちた組織を創っていく挑戦があってもいい。フォーマットをコピペしていくよりは、そうした取り組みが社会全体の多様性になっていくようにも感じます。いずれにしても、価値発揮の源泉は業界・企業から個人となり、個人の選択力・戦闘力が高まっていかなければ成長はあり得ないと思います。個人としての尖りといった部分に、教育の段階からスポットを当てていくことが大切なのではないでしょうか。 |