経験から理論を生み出す研究方法を確立する
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磯村 和人Kazuhito Isomura
中央大学 理工学部ビジネスデータサイエンス学科教授京都大学経済学部卒業、京都大学経済学研究科修士課程修了、京都大学経済学研究科博士課程単位取得退学、京都大学博士(経済学)。主著に、Organization Theory by Chester Barnard: An Introduction (Springer, 2020年)、『戦略モデルをデザインする』(日本公認会計士協会出版局、2018年)、『組織と権威』(文眞堂、2000年)がある。
前回、バーナードが経験から理論を導く途上で形成した基本哲学をいくつか取り上げた。それでは、実務家であるバーナードは自らの基本哲学をベースにして、どのように体系的で、論理的にも厳密な組織とマネジメントの理論を構築することができたのだろうか。今回、バーナード研究の第一人者である磯村和人教授によるOrganization Theory by Chester Barnard: An IntroductionとManagement Theory by Chester Barnard: An Introductionから、経験から基本哲学を経て、理論を構築する研究方法について考察する。
経験から理論を生み出す
バーナードは、なぜ、実務家であったにもかかわらず、『経営者の役割』という組織とマネジメントの理論に革命をもたらすような著作を生み出すことができたのだろうか。また、なぜ、バーナードは、自ら蓄積した経験に基づいた研究であるにもかかわらず、科学と同等の体系的で、論理的な理論を構築することができたのだろうか。
バーナードは、確かに大変な読書家で、多くの書籍を読み、それらの研究成果を活用していることは間違いない。しかし、バーナードは、『経営者の役割』を執筆した際に、研究の素材は自らの経験であることを繰り返し述べている。そして、通常、実務家が出版した著書は、自らの経験を事例として語ることが中心になるので、具体的で、現実的である。しかし、そうした場合、Simon (1947)が厳しく批判するように、多くの実務家による著作は経験に基づくことわざのようなものであり、それらによって提示された命題に基づいて演繹的に論理的な理論を構築することができないと見なされる。これに対して、バーナードによる『経営者の役割』は、厳密な概念枠組に基づく体系的で、論理的な研究として評価されている。ここで展開される理論は、研究者にとっても、抽象的であり、容易に理解できるレベルのものではない。
こうしたことが可能になった理由としては、バーナードが研究者とは異なる独自の研究方法を確立していたことが挙げられる。実際、Wolf (1974, 1994)、吉田(1986)、山口(1988)、加藤(1996)、庭本(2006)は、バーナードが参加観察の方法、あるいは、ヘンダーソンの影響を受けたヒポクラテスの方法という臨床的アプローチを採用したことによって、独自の組織とマネジメントの理論を生み出すことにつながったと指摘している。
経験から理論を生み出すバーナードの研究方法については、その重要性が指摘されてきた。しかしながら、それがどのようなものであるか、については、これまでほとんど体系的に論じられていない。したがって、本稿では、バーナードの研究方法がどのようなものであるかを体系的に説明する。バーナードの研究方法を体系的に明らかにすることによって、なぜ、バーナードが『経営者の役割』のようなブレークスルーを生み出す著作が生み出されたかを理解することができる。なお、Isomura(2019)において、バーナードの研究方法については論じているので、これに基づいて、バーナードの研究方法を明らかにする。
参加観察の方法を採用する
バーナードは、自らの研究方法として、参加観察の方法を活用していたことを率直に語っている。実際、ウォルフによるインタビューに応えて、バーナードは、多くの非営利組織や非政府組織の組織や経営に関わることは研究者にとって実験室に当たるという考え方を示している。バーナードはあるとき知人からさまざまな会議に参加することが時間の浪費ではないかと問われ、「私が関係をもつこれらのすべてには、二つのことがある。一つはお手伝いをすることという直接的、実務的、実用的な理由からです。しかし、第二には、それは私にとっては実験室だからです」(Wolf, 1973, p. 13)と回答している。バーナードは、「ここで私は、人びとが実際にどのように働いているかを見出していたのです。外部にいてはそれができません。内部にいなければ駄目です」(Wolf, 1973, p. 13)として、さまざまな組織に関わるなかで、外部者ではなく、内部者としてその実態を観察することの重要性を強調している。
ウォルフが参加観察の方法を採用していることについて質問を重ねると、バーナードは、参加観察という方法について、以下のように回答している。「(参加的観察者は)非常に難しい役割です。たいていの人はそのようにしようとして身の破滅を招くのです」(Wolf, 1973, p. 13)と述べて、ジキル博士とハイド氏のように二重人格にならなければならないこと、そのためには参加観察の技術を身につける必要があると述べている。実務家としてビジネスに直接関わると同時に、客観的に自分が直面している現実を観察できなければ、『経営者の役割』のような著書を書くことができないと論じている。しかし、同時に、二つの役割の扱いを誤ると、大きな危険に身をさらすことも付け加えている。
こうしたリスクを背負うことになったとしても、組織やマネジメントの本質に関わることを明らかにしようと思えば、現実に深く関わらなければ不可能であるとし、「ある問題に直かに肌で触れて知っている直観的習熟をもつ人びとが、それを言葉で表現できる場合であり、それならば自分が追求しているものを得ることができます。ただ口先だけの言葉だけであるならば空論にすぎず、本物ではありません」(Wolf, 1973, p. 13)と述べる。いくら現場を観察する機会を与えられても、自分自身が深くコミットしたのでなければ、そこで何が起こっているかを理解できないことを指摘している。
現実で起きたことをできる限り忠実に表現しようとするために、断片的な事実を収集し、提示するだけでは十分でないので、バーナード自身は、日記を付け、観察したことをノートに記録することはしなかったという。その理由として、「いや、かつてやったことはありません。そうしていれば、ほとんど致命的だったでしょう。日記をつけ始めたその時から、観察することやそれについて述べる言葉は日記向けになり、実際にかかわっている出来事の流れに沿わなくなるからです」(Wolf, 1973, p. 13-14)と述べる。バーナードが実際に経験をしたことをケースのようにまとめることをほとんどしない理由がここに明らかにされている。バーナードは、経験したことをそのまま提示するのではなく、概念、あるいは、理論という形に抽象化して提示することを選択したのである。
しかし、なぜ、参加観察という方法を採用しなければ、組織とマネジメントに関わる現実を捉えられないのか。バーナードは、人びとの精神的プロセスで起きる反作用という現象を取り上げている。「科学的な仕事と他の仕事との間の最も重要な差異は、必要な精神過程の構成のいかんではなく、精神過程とそれが運用される問題との間に反作用があるかないかによる」(Barnard, 1938, p. 317)と指摘し、反作用の重要性を論じている。現実の世界では、「人間世界における意見の表明、情況の叙述、法律の制定、あるいは、行為の決定などは現実世界を変化させる。それは必然的に行為者の地位と行為の影響を受ける者の地位との双方に変化を与える」(Barnard, 1938, p. 317)とし、ある人が意見を述べること(作用)がなされると、作用は何にも影響を及ぼさない中立的なものではありえなくなる。つまり、作用は必ず反作用を導き、変化を引き起こす。作用と反作用が繰り返される相互作用が常態である現実の世界では、当事者として関わる現実そのものを観察できなければ、何が起きているかを理解できない。そのために、バーナードは、参加観察という方法を身につけ、観察したことを抽象化し、言葉化する能力を高めることで、組織とマネジメントの理論を構築できると主張している。
図表1のように、参加観察の方法をあらわすことができる。組織の内部者として、実際に現実にコミットする自分自身と組織を観察できる立場になければ、そこで起きていることを本当の意味で理解できない。行為主体として状況に深く関わり、行動する(作用)と、その反作用を受け、状況は変化を続ける。この変化する現実を客観的に観察することによってのみ、組織で起きていることを理解できるというのがバーナードの考え方である。経験として積み重ねたことを素材として、組織への理解を深めるために、バーナードは、参加観察という方法を採用している。
ヘンダーソンは、バーナードに対して現実を深く理解するための事例作成を依頼している。具体的には、ヘンダーソンは、「社会的状況における人間の相互作用と行動にかかわる多くの具体的事例を提示して、そのような状況のもつ重要性を伝え、それによって人間関係の諸問題に対する科学的アプローチの事例を学生に提供する」(Barnard, 1948, pp. 52)実験的なコースを準備していた。しかし、こうした事例を提供できる人は限られていて、ヘンダーソンがバーナードに事例提供を依頼したのもこの相互作用を的確に捉えることの難しさを理解していたからである。
バーナードは、基本的に外部者の観察に基づく事例には懐疑的である。もし、バーナードが事例を作成するのであれば、どうするのかについては、以下のように論じている。事例を作成するに当たって、「鋭敏ではあっても、作用している諸力について何らかの知識を持ち合わせていない観察者が見た単なる出来事の記述は、辛うじて個々の行為を復元しただけの話であり、それは不完全で恐らく誤解に導くものであり、時にはまったく誤ったものであるかもしれない」(Barnard, 1948, pp. 55-56)と述べている。その理由としては、参加者の意図や理解が脱落していて、その結果、「観察者をそうした状況のなかに投じることそれ自体が、状況の変化をもたらして、それらの事例をがらりと変えるに十分であること」(Barnard, 1948, pp. 56)を考慮に入れていないからである。そうした現実を捉えるためには、内部者としてその現実にコミットし、その現実に十分に習熟していない限り、そこで起きていることの本質を捉えることができないとバーナードは論じている。このように、事例を作成する場合にも自分が深く関わったものでない限り、その記述は表面的なものにとどまり、その本質を捉えたものにはならないとバーナードが考えていることがわかる。
議論水準を3つに分ける
それでは、参加観察された経験は、その後、どのように取り扱われるのだろうか。バーナードは、3つの異なる議論水準に分ける必要があることを論じている。
Barnard(1947)では、「私は、組織についての経験や知識を3つのまったく異なった水準を区別することが、便利であると知った。第1のものは、特定の状況における具体的行動の水準である。ここでは、行動の多くは習慣的で、無意識的に感応しやすく、適応的である。実際、そういった行動の多くは、もしそれが無意識的でないならば、違った行動となり、効果的ではないだろう。この水準においては、経験がわれわれの教師であり、われわれの学んだものは知識というよりも『ノウハウ』である」(Barnard, 1947, p. x)と述べている。
続いて、「経験の第2水準は、特定の組織慣行の水準である。これは特定の組織の命令系統、統制の政策、規則や規制、行動の様式などを意味している。どの組織でも、これらの多くは文書に書かれており、研究することができるが、また多くのものは『不文律』であり、おもに親しく接して観察し経験することによって学びうる。(中略)しかし、概していえば、特定の組織についての効果的な実際の知識は、その組織のなかで働くことによってのみ得ることができる。人がその組織のなかで生涯を過ごした場合を除き、これら特定の組織の行動に関する十分な知識をもつことは期待できない」(Barnard, 1947, p. x-xi)。そして、バーナードは、この議論水準では、注意すべき点を2つ指摘している。1つは、組織はそれぞれ独自の言葉や通り言葉をもっていることである。もう1つは、行動はしばしばそれを述べるのに使われる言葉と一致しないことである。したがって、組織とマネジメントについての科学的知識は、特定の組織における特定の経験の代わりをつとめることができないとしている。
最後に、第3の知識の水準は、科学的なものである。明確でわかりやすく、一般性をもっている。一般性を達成するために、その内容は高度に抽象的になっている。
組織で経験したことを取り扱う場合に、このように3つの議論水準に分けることの有用性については、Barnard (1948, pp. 125-128)でも論じられている。バーナードは、「多くの管理職位にとって望ましい資質は、同じ主題を、聞き手によってまた目的に応じて、いくつかの『言語』で語ることができる能力である。そのような言語を『議論水準』と呼ぶことにしよう」(Barnard, 1948, pp. 125-126)と述べている。
「『最も低い』水準は身体的な表示---何を見るべきかを指し示すとか、条件や結果を指さす、といった表示---である。この水準の論議は『現実』に最も近く、具体的なものである」(Barnard, 1948, pp. 126)。「その対極にあるのが科学的論議の水準である。それは、究極的には、厳密な定義に基づき、論理的に一貫性をもっていて矛盾がなく、多くの場合高い抽象性を有するような最広義の一般化につながっている」(Barnard, 1948, pp. 126)。そして、「これらの両極の間に、実際的な論議の諸水準がある。それらは、ほとんど全部が高度に抽象的なのであるが、一般性においては相違している。指導的管理者は(企業であれ他の場合であれ)彼らどうしの間の論議ではごく近いというほどではないが、科学的なものに近づいてくる(普通はそれに気がついていないが)。彼らの会話は仮定と仮構に満ちているが、それは科学の基本的な概念と仮説に対応している」(Barnard, 1948, pp. 126-127)と述べて、3つの議論水準に分けられることを論じている。バーナードは、中間レベルの議論水準は首尾一貫性を欠き、具合の悪いことをしばしば引き起こすものの、日常的実務の上では、いわば、この非科学的議論の水準に基づいてコミュケーションが行われていると指摘している。
図表2のように、バーナードは、この3つに異なる議論水準を往来することで、現実の世界、実務の世界、科学の世界を縦横無尽に移動していると考えられる。実務に関わるトピックを語ることもあれば、科学的な議論水準で現実を説明することもある。
その後、バーナードは、こうした議論を整理して、行動的知識(=技能)、個人的知識、公式的知識として組織知識の体系化を図っている(Barnard, 1950)。行動的知識は、第1の議論水準に対応する。行動的知識というのは、知識が身体に埋め込まれたものを意味し、模倣や訓練によって身につけられる。行動的知識の例として、身体的技能、人びととうまくやっていく技能、説得の能力、コミュニケーションの技能、直観的習熟の技能などを挙げている。行動的知識として身体に蓄積される知識はノウハウとして見えない形で保存される。これに対して、口頭によるコミュニケーション技能によって言語化されると、明示化される。行動的知識は、言語によるコミュニケーションと抽象によって知識化され、広く利用し、伝達することが可能になる。
バーナードは、行動的知識が言語化されるものをさらに2つに分けている。1つは、公式的知識であり、もう1つは、個人的知識である。公式的知識は体系化され、誰でも利用できるものとなる。書物のなかに書き記され、学校で教育され、慎重な観察や実験を通して獲得される知識である。文書化された知識は大量なものであり、私的に所有されるというよりも、社会的に所有される公的な資産となる。あまりに膨大なので、どのように蓄積し、伝達し、活用するのかが大きな社会的な課題になる。公式的知識は、科学の水準に属するものであり、第3の議論水準に相当する。
これに対して、バーナードは、個人的知識の重要性に目を向ける。個人的知識は、日常の、ありふれた出来事に関する局所的な知識であり、一見、人びとの関心も引かず、重要性の低いものに見える。しかし、個人的知識は、個人が特定の時間と場所に習熟し、そこで経験したことを蓄積した現場の知識である。バーナードは、個人的知識を自分自身に関する知識であり、個人をこうした知識をもつ小さな島であると捉える。個人的知識が組織において重要な意味をもつ理由として、責任の受容と履行がこの個人的知識に依存していることを述べている。組織において信頼のおける行動は、個人的知識によって可能になる。このように、個人的知識は、第1と第3の議論水準の中間に位置する第2の議論水準に相当する。もちろん、組織の活動は、3つの議論水準を取り扱うが、この第2の水準が特に重要性が高い。前回、取り上げたバーナードの基本哲学は、仮構という仮説、あるいは、信念の体系であり、第2の議論水準に属するものであると考えることができる。
ヒポクラテスの方法をベースにする
加藤(1996)は、ヘンダーソンによって『経営者の役割』の草稿がレビューされ、概念枠組が鍛え上げられる上で、大きな影響があったと論じている。そのなかで、バーナードとヘンダーソンがヒポクラテスの方法という臨床的なアプローチを共有していることを指摘している。図表3のように、ヘンダーソンによると、ヒポクラテスの方法というのは、直観的習熟、知識、理論(=思考方法)の3つのものから成り立っている。
実際、ヘンダーソンは、「ヒポクラテスの方法は、これまで広く一般的に成功してきた唯一の方法である。その方法の第1の要素は、図書館のなかではなく、病室での辛くて、持続的で、知的な、責任ある、辛抱強い労働である。それは自己の職務に対する医師の全般にわたる気配りなのである。その方法の第2の要素は、事物および事象を正確に観察すること、顕著にして頻発する現象を熟知と経験から生れた判断に先導されて選択することであり、そして、それらを分類し、その方法を開発することである。その方法の第3の要素は、賢明な理論---それは哲学的理論でも、荘重な想像努力でも、そして、また、準宗教的教義でもなくて、控えめの月並みのしろもの、つまり、多分もっともうまい言い方をすれば、道行きに役立つ歩行杖---の構築とその利用である」(Henderson, 1970, p. 67)と述べている。
このように、ヘンダーソンは、臨床医として考えるヒポクラテスの方法を構成する3つの要素として直観的習熟、知識、理論を挙げる。また、これらの議論を要約し、「すべてのことは一言で要約できよう。すなわち、医師としてもつべきことは、第1に、血の通った慣性となるほどの事物への直観的習熟であり、第2には、事物の整然たる知識、そして第3には、事物の有効な思考方法である。彼の直観的習熟は、研究対象と同様に、整然たる知識と思考方法をもたなければならない。これらの3つの資格要件を欠くようなら、いかなる人も科学的に思考しているとは信じがたい」(Henderson, 1970, p. 67-68)とまとめている。
バーナードとヘンダーソンとの共通性を確認してみよう。第1の要素は、バーナードが直観的習熟の技法を含む行動的知識と呼ぶものに相当し、第2の要素は、バーナードが個人的知識、公式的知識と呼ぶものに当たる。第3の要素は、バーナードが第3の議論水準と呼ぶものであり、科学的な理論に相当する。それでは、直観によって現場に習熟し、経験を積み重ねるなかで、行動的知識、個人的知識、公式的知識を蓄積した上で、どのように理論を構築するのか。このことを次に考えていこう。
まず、バーナードは、理論がどのようなものであるかを論じている。「理論とは、状況、事柄の状態、出来事や活動の経過、生起する事象などについての包括的な説明であると思っている」(Barnard, 1948, p. 128)と述べている。そして、多くの理論は出来が悪く、つまらない理論であるといい、重要な理論、優れた理論もあるが、いかなる究極の理論はないとしている。「重要な理論は、一般的な利害と関心についての、より広範な問題を包含している。優れた理論は、一般に事実に適合しており、自己整合的であり、重要な新事実の発見に有用性をもつことが証明され、広く受け入れられる可能性をもち、事実と知識と観念を能率よく正確に伝達することに役立つものである」(Barnard, 1948, p. 128)と指摘する。
続いて、バーナードは、理論を形成する3つの方法を論じている。第1は、事実を説明する理論である。バーナードは、事実は物事や出来事ではなく、物事や出来事についての言明であり、事実を説明したときには、すでに出来事に関する何らかの理論になっているという。つまり、「事実とは、ある物事や出来事の観測された側面である現象についての観念、すなわち、心のなかに思い浮かばれたもの、の言明である」(Barnard, 1948, p. 129)と論じている。
第2に、事実の言明は、一つの物事、あるいは、単一の出来事と思っているものだけでなく、出来事の集合全体についての場合もあるという。つまり、多くの出来事をまとめて、一般化された事実についての言明も理論であるとしている。例として、「昨日、百万人の投票があった」という事実に関する言明がこれに当たるという。誰も実際に百万の人が投票したことを見て、確認していなくても、事実であるかのように出来事が語られる。バーナードは、一般化された事実の言明も理論であるという。
第3に、「観測された証拠と理論から直接推論することができるという意味での事実ではないが、一般的知識、理論、経験、物事の感じ、想像力などの産物としての観念ないし概念がある」(Barnard, 1948, p. 130-131)と指摘している。このような「概念は、説明を与えるための一環として、すなわち、理論を作るための一環として、恣意的ではないにしても経験とは無関係に、いわば、まったくの仮構から作り出される」(Barnard, 1948, p. 131)と述べている。理論とは、特殊、および、一般の事実を十分に説明するものであれば、優れた概念といえる。こうした概念は、観念や事実を組織することであると捉えている。
バーナードは、このような概念を形成した上で、複数の概念を組み合わせることによって、現実を説明できると指摘し、概念の組み合わせを概念枠組と呼ぶ。したがって、バーナードの場合、概念枠組を理論であると捉えている。概念や概念を組み合わせることによって、理論、すなわち、莫大な数の事実の有効な説明の枠組が可能になる。バーナードは、「理論の枠組を与える基本概念の集合を『概念的枠組』と呼んでいる」(Barnard, 1948, p. 131)と述べている。このように、知識は、概念化され、概念を組みわせることで、理論を構築する。知識も事実をベースにする言明、それを一般化した言明、抽象化され、言語化された概念という三つに分けられる。経験から概念が導かれるプロセスは図表1のようにまとめることができる。経験を通じて、行動的知識を身につけ、それらを抽象化、言語化することで個人的知識となり、個人的知識が確かめられ、共有されることで、公式的知識となる。これらの知識を活用し、概念を生み出し、それらを組み合わせることで理論を生み出す。このサイクルは、ここで終わるわけではなく、経験にフィードバックされ、活用され、修正される。
バーナードは、『経営者の役割』を執筆した際に、構築した概念を構造概念と動態概念という2つに分けている。構造概念というのは、「主題についての、相対的に安定で固定している一般的側面に関するものである」(Barnard, 1948, p.131)。これに対して、動態概念は、「運動ないし変化の『いかに働くか』についての一般的観念に関するものである。(中略)人間の身体の理論においては構造概念は解剖学を構し、動態概念は生理学に関連している」(Barnard, 1948, p.131)。図表5のように、構造概念には、個人、協働システム、公式組織、複合公式組織、非公式組織、動態概念には、自由意思、協働、伝達、権威、意思決定過程、動的均衡、責任がある。
バーナードが複数の概念を組み合わせて、概念枠組を構築する場合、しばしば、対立する概念を複数組み合わせている。例えば、個人と協働システム、公式組織と非公式組織、公式組織と複合公式組織、自由意思と権威、権威と責任という具合である。バーナードは、対極的思考を活用し、一つの現実をまったく正反対の視点から眺めることで、複眼的に捉える方法を採用している。
理論と実践を架橋する
バーナードは、自らの経験をベースにして、組織とマネジメントの理論を構築している。一般的に、実務家が著書を出版する場合、経験した事実を具体的なケースとして語ることが多いのに対して、バーナードは、理論として提示している。しかも、その理論は論理的で、体系的である。バーナードの『経営者の役割』が実務家の手によるものであるにもかかわらず、論理性と体系性を兼ね揃えているのは、バーナードが自らの研究方法を明確に自覚し、緻密に構築している証左といえる。
実際、コープランドがバーナードの『経営者の役割』をHarvard Business Reviewで書評したときに、彼はバーナードが概念枠組を構築することに注力しすぎているために、難解で抽象的になっていることを批判した(Copeland, 1939)。これに対して、バーナードが猛然と反論を加え、概念枠組の重要性を指摘している(Barnard, 1940)。コープランドは、研究者として実務家にアカデミックな研究を期待せず、もっと実務的な内容が提供されることを期待していたのであろう。2人の論争は、実務家のバーナードが研究者のコープランドに対して理論の重要性を説くという皮肉的な結果に終わっている。
このように、バーナードは、現場に深く習熟し、そこからさまざまな形態の知識を蓄積して、十分に実務上で実験、検証された知識を概念と概念枠組まで練り上げている。バーナードが経験から理論を構築する方法を確立し、理論と実践の架橋を図ろうとしたことは感動的である。そして、多くの実務経験をもつ『経営者の役割』の読者も理論と実践が見事に架橋された著書であることを感じ取り、その内容の魅力に引きつけられていると考えられる。
参考文献一覧
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