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ドラッカーの原点:自由、責任ある選択、秩序|「理論」と「実践」の接続|Link and Motivation Inc.
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ドラッカーの原点:自由、責任ある選択、秩序

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  • 磯村 和人

    磯村 和人Kazuhito Isomura
    中央大学 理工学部ビジネスデータサイエンス学科教授

    京都大学経済学部卒業、京都大学経済学研究科修士課程修了、京都大学経済学研究科博士課程単位取得退学、京都大学博士(経済学)。主著に、Chester I. Barnard: Innovator of Organization Theory(Springer, 2023年)、『戦略モデルをデザインする』(日本公認会計士協会出版局、2018年)、『組織と権威』(文眞堂、2000年)がある。

今回の連載では、ドラッカーの思想を取り上げる。ドラッカーは、『現代の経営』において、事業の目的は顧客の創造であると主張し、ビジネス界に大きな衝撃を与えた。なぜ、ドラッカーは、このような考え方に到達したのだろうか。ドラッカーのバックグラウンド、研究アプローチ、基本思想などを検討することを通じて、彼がどのようにして社会的、統治的、経済的制度としての企業やそのマネジメントを論じるようになったのか、その原点を探る。

はじめに

はじめに

今回の連載では、ドラッカーの思想を論じる。いうまでもなく、ドラッカーの著書は、世界で広く読まれ、親しまれている。ドラッカー自身、自らの著書が総数で500~600万部は出ていると述べている(Beatty, 1998)。特に、日本において、とりわけ、ビジネス界では、ドラッカー人気は相当なものであり、多くの著名な経営者がドラッカーから多大な影響を受けたことを公言している。井坂(2023)は、その代表例として、ソニーの井深大、盛田昭夫、オムロンの立石一真、富士ゼロックス(現 富士フイルムビジネスイノベーション)の小林陽太郎を挙げている。また、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、ファーストリテイリングの柳井正なども含まれるだろう。

ドラッカーその人自身も魅力的な人物であり、その謦咳に触れたものは、ドラッカーの存在に魅了されている。しかし、「ドラッカーとは何者か」ということを理解しようとすると、それが容易ではないことに気がつく。ドラッカーは、「私は大学教授とかコンサルタントとか呼ばれ、時に『マネジメント(経営)の発明家』と言われるが、少なくとも経済学者ではない。基本は文筆家だと思っている」と述べている(Drucker, 2009, 訳書25ページ)。本連載では、ドラッカーとは何者であるかを、その生い立ち、キャリア、基本思想などを検討することを通じて、その一端を明らかにする。

広く一般的な読者、とりわけビジネス界での評価は高いものの、アカデミックの世界では、必ずしもそうではない。経営学のテキストで取り上げられ、その理論が紹介されることは限られている(Krames, 2008)。また、学界ではドラッカーは研究者よりはジャーナリスト、ジャーナリストよりは一般論を口達者に述べる人物と考えられている。ドラッカーの研究は研究というものではなく、彼のマネジメントに関するアイデアは構造化されておらず、体系化ではないとして軽視されている(Kantrow, 1980)。さらに、ドラッカーの文章にはいわゆるレトリックがふんだんに施されている。全否定のような、極端で、断定的な表現が活用され、数字を使った独断的なまとめ方が行われ、脚注も非常に少ないことから研究者の間では疑問の声が出されている(Beatty, 1998)。ビジネス界と学界におけるこのような評価のギャップをどのように理解すればよいのだろうか。本連載では、ドラッカーがどのような研究アプローチを採用しているかについても考察する。

ドラッカーの到達点の一つに『現代の経営』があり、そこで、ドラッカーは、事業の目的を顧客の創造であると主張した(Drucker, 1954)。ビジネスパーソンの多くが事業の目的は利益であると考えているなかで、ドラッカーの主張は大きな衝撃をもって受け止められている。なぜ、事業の目的は顧客を創造することであるというアイデアに至ったのか、この点についても本連載で明らかにしようと考えている。

今回、ドラッカーの略歴を検討するとともに、初期の著作をレビューする。具体的には、生い立ち、学歴、職歴などを自伝的な著作を活用する。また、ドラッカーが大きな影響を受けたとしている経験をいくつか取り上げて、それらがドラッカーの基本的な考え方を形成する上で果たしている役割を考察する。

例えば、ドラッカーに影響を与えたこととして、幼少期に受けた教育、政治活動からの決別、キルケゴールとの出会いなどがあるだろう。幼少期に受けた教育は文筆家としての道を開いたと考えられる。また、デモ行進への参加は直接的な政治活動から離れることを促し、キルケゴールの思想に触れたことが自由、責任ある選択というドラッカーの基本思想を形成することにつながっている。また、初期の著作としては、『フリードリヒ・ユリウス・シュタール』、『ドイツのユダヤ人問題』、『「経済人」の終わり』を取り上げる。『フリードリヒ・ユリウス・シュタール』を通じて秩序、あるいは、保守主義の考え方、『ドイツのユダヤ人問題』はヨーロッパにおいてユダヤ人への差別がどのようなものであったのかを論じ、『「経済人」の終わり』への執筆へと結びついたと考えられる(Drucker, 1933, 1936, 1939)。

以上のような作業を通じて、ドラッカーの原点を探ることが今回の目的となる。

ドラッカーの生い立ちとキャリア

本節では、ドラッカーの自伝的著書であるDrucker(1979, 2009)に基づいて、ドラッカーの生い立ち、学歴、職歴、主要な著作をまとめて、ドラッカーの知的な遍歴を明らかにする。ドラッカーは、オーストリア=ハンガリー帝国において政府の要職につく裕福な家庭に育っている。両親がサロンを開き、錚々たるメンバーと交流をもつ知的な環境のなかにドラッカーはおかれた。サロンに出入りしていた人物としては、フロイト、シュンぺーター、ハイエク、トーマス・マンなどを挙げることができる。ヨーロッパの伝統的な教育を受けた教養あふれる知識人が、なぜ、マネジメントという世界へと進んでいったのか、その始まりを検討する。

図表1では、ドラッカーが生まれてから、その出世作となる『「経済人」の終わり』を出版するまでの略歴、特に、ドラッカーに強い影響を及ぼしたと考えられることをまとめている。

図表1 『「経済人」の終わり』出版までの略歴

1918年からギムナジウムに入学するまで、ドラッカーは、私立小学校で、エルザ、ゾフィーの教えを受けている。この両人から教育を受けた経験は、ドラッカーに大きな影響を与えたと考えられる。エルザとゾフィーからの教育を受け、文章作成について毎日、課題を与えられて、作文を重ねるなかで、文章を書く技術、喜びを習得している。Drucker(1979)では1章分を割いて、エルザとゾフィーから受けた教育と影響を論じていて、ドラッカーが基本的に自らを文筆家と考えるようになった原点がここにあるといえる。ただ、きれいな字で書けるように指導を受けたものの、ドラッカーの悪筆は全く改善されなかったようである。

Drucker(2009)において、ドラッカーは自らの文章作成方法を披露している。「まず手書きで全体像を描き、それをもとに口述で考えをテープに録音する。次にタイプライターで初稿を書く。通常は初稿と第二稿は捨て、第三稿で完成。要は、第三稿まで手書き、口述、タイプの繰り返しだ。これが一番速い」(Drucker, 2009, 訳書, 24ページ)と述べている。口述したものをタイプするために、その作業をアウトソースしていた。

ドラッカーは、1923年に社会主義者が支配するウィーンの市民が毎年祝う「共和国の日」でデモ行進に参加する。まだ、14歳のときであった。赤旗を掲げて隊列の先頭に立てるということで、参加するも途中で離脱する。ドラッカーはこうした政治活動に向かないことを早くから理解する。Drucker(1979)のタイトルは『傍観者の冒険』(Adventures of a Bystander)であり、ドラッカー自身が政治活動には直接、コミットせずに、観察者という立場から批判的視点で政治を論じる自分のスタンスを表現したものと考えられる。

大学進学の準備をするギムナジウムを卒業すると、最初は大学には進学せずに、ハンブルクで貿易商社の見習いになった。しかし、大学進学を希望する両親の気持ちもくんだのか、働きながら、ハンブルク大学法学部に入学する。知的で、裕福な家庭で育つなかで、知的エリートが辿る道筋を経て、進学予備校を卒業し、大学に進学したことになる。両親はウィーン大学への進学を希望していたのであろうが、ドイツに行き、貿易商社で働き始めた。しかし、両親を安心させるためもあってか、ハンブルク大学、フランクフルト大学に入学し、国際法で博士号を取得した。

働きながらの学習であったので、ほとんど大学の授業には出席できず、図書館で自らの興味にしたがって、さまざまな書籍を読み込んでいる。ドラッカーは、基本的には独学であったということができるだろう。このときに、キルケゴールの哲学に出会い、特に、『おそれとおののき』に深く共感する(Drucker, 1959)。キルケゴールの著書を原典で読むために、デンマーク語を習得するほどの力の入れようであった。キルケゴールとの出会いが、自由、責任ある選択というドラッカーの基本思想を形成することに寄与したと考えられる。この点については、節を新たにして論じる。

ドラッカーは、働きながら、勉学に励むという生活をドイツで過ごした。貿易商社、投資銀行、雑誌編集とさまざまな仕事を経験している。しかし、そのベースは、アナリスト、ジャーナリストであり、文章を書くことがその本質をなしているといえる。自ら考え、自分の足で取材したことを文章にまとめるという経験を積み重ねていた。

ジャーナリストとしての仕事をするなかで、当時、台頭してくるナチスとまじかに接することになった。ヒトラー、ゲッペルスらに直接、インタビューする、あるいは、取材する機会をもち、ナチスの集会にも参加して、記事を執筆している。そのなかで、ナチスが伸長し、いずれ政権につくことを予測するようになった。これらの経験が『「経済人」の終わり』につながっていく。

また、ナチスが政権につくと、ハンブルク大学で助手のポストについていたドラッカーは、突如、解雇された。これを受けて、ドイツを離れる決断をしている。ドイツを離れるにあたっては、ユダヤ系政治学者のシュタールに関する著書を出版し、発禁処分を受けている(Drucker , 1933)。シュタールの関する著書は、決してナチスを直接的に批判する書ではなく、秩序をベースにする保守主義の考え方を論じたものであった。ここにも、ドラッカーの政治思想のベースが示されている。この点についても次節で論じる。

ドラッカーの基本思想

本節では、ドラッカーがその基本思想を示したキルケゴールとシュタールに関する論文と著書を取り上げる(Drucker, 1933, 1959)。ドラッカーは、働きながら、大学に通うなかで、キルケゴールの哲学に出会い、深く共鳴している。キルケゴールの『おそれとおののき』は、ドラッカーの愛読書である(Kierkegaard, 1962)。キルケゴールの哲学は、ドラッカーが自由、責任ある選択という自らの中核になす考えを生み出すきっかけになっている。また、シュタールに関する著書は、ドラッカーの処女作であり、シュタールの思想を語るなかで、自らの政治思想を明らかにしている。とりわけ、秩序をベースにする保守主義の考え方を本格的に論じたものである。本稿では、キルケゴールとシュタールに焦点を当てているが、井坂(2018)はドラッカーの初期思想形成を体系的に考察していて、シュタール、バーク、ラテナウ、マクルーハンの影響を論じている。また、12月に出版される井坂(2024)では、キルケゴールの影響についても考察されていると聞いている。

ドラッカーは、キルケゴールが人間の存在は果たして可能かという問題を中心的な課題としたと理解している。これに対して、ルソーは、社会は果たして可能かという問いを立て、社会の存在を認めると、自由、あるいは、人間存在に対して否定的な見解に到達すると論じたとしている。社会の存在を認めて、社会のなかに人間が規定されると、人間は自由や自律性をもつ存在ではなくなってしまうとされる。

これを受けて、ドラッカーは、この問いに対するキルケゴールの解答を次のように述べている。「人間の存在は、個人としての人間の精神の中にある同時的生命と、社会における市民としての、人間の同時的生命との間にある緊張のなかにおいてのみ可能である」(Drucker, 1959, 訳書, 209ページ)と。つまり、キルケゴールは、社会との葛藤のなかにおいて、人間という存在があるという認識を示していると理解する。

ドラッカーは、こうした考えに深く共鳴し、キルケゴールの主張を繰り返し述べている。例えば、「人間の存在は、2つの平面上の存在―緊張のなかの存在―である」(Drucker, 1959, 訳書, 210ページ)。あるいは、「人間の存在が、時間と永遠との存在の間の緊張の中にのみ、可能であるというならば、人間の存在が不可能な場合だけ可能だといえる」(Drucker, 1959, 訳書, 211ページ)という具合である。ドラッカーにとって、人間とは相対立する葛藤のなかに生きる存在と理解されている。

キルケゴールは、個人と社会という葛藤だけでなく、人間という存在が生と死という決して両立することのないもののなかの葛藤にあると論じた。例えば、ドラッカーは、「人間の存在が、ただ時間と永遠の中に、同時的な存在としてのみ、可能であるといえるならば、それは、2つの両立しない正反対の絶対性の間で圧しつぶされた場合にだけ可能であるともいえる」(Drucker, 1959, 訳書, 212ページ)と述べている。また、「窮極的に、キルケゴールにとって価値のある問題は、矛盾する固有性の間の妥協のない葛藤の問題であった」と論じている(Drucker, 1959, 訳書, 213ページ)。

ドラッカーは、キルケゴールを通じて、生と死への認識を深めたと考えることができる。Drucker(1959)から、印象的な引用をいくつか紹介すると、図表2のようになる。

図表2 ドラッカーが理解するキルケゴールの死生観

個人と社会の葛藤、生と死の対立という決して両立することのない現実に向かい合う人間はどのように生きるのか。ドラッカーは、キルケゴールがこのような根本的な問いに取り組んだと受け止める。その取り組みは、絶望と希望という2つに同時に対処することを意味する。ドラッカーは、「キルケゴールは個人たらんと欲して個人たり得ないことの絶望というこの状態を、楽観的なものよりもさらに深い絶望とみなした。しかし、人は途中でこの絶望から逃れることはできないのである」(Drucker, 1959, 訳書, 218-219ページ)と指摘している。

このような問題に直面する人間は、それに対してどのように対処するのか。ドラッカーは、「キルケゴールは、人間の存在が可能なのは、絶望とか悲劇の中にではなく、信仰の中における存在として可能である、と別の解答を出している」(Drucker, 1959, 訳書, 219ページ)と述べている。また、「信仰とは、神の存在のもとに、不可能なことが可能になり、時間と永遠が一致し、生命と死とのいずれもが重要だということを確信することである。また、信仰は、人間がつくられたものであって、自律的でもなければ、神でもなく、また終わりでも真中でもないが、責任をもつものであり、自由な存在であるということを了解することである」(Drucker, 1959, 訳書, 219ページ)として、ドラッカーは、キルケゴールが信仰にその可能性を見出している。ドラッカーは、キルケゴールの『おそれとおののき』に、自らの基本思想である責任と自由の考え方を見出している。

このように、個人と社会の葛藤、生と死の対立という根本的な問題に取り組むなかでは、ある種の信仰、あるいは、信念を頼りにすることになる。ドラッカーの場合には、それは自由と責任という考え方であり、アブラハムを論じたキルケゴールは神への信仰ということになる。例えば、ドラッカーは、「このアブラハムの話は、信仰の中でのみ可能な人間の存在の普遍的な象徴である。信仰では、個々のものは普遍的なものとなり、個別化を避け、意義あるものとなり、絶対的なものとなるのである」(Drucker, 1959, 訳書, 220ページ)と述べている。また、「信仰は、不合理でもなければ、感傷や感情でもなく、ひとりでに生じたものでもない。信仰は真剣な思考と修得の成果であり、厳格な訓練と分別のある思慮の成果であり、より高い絶対的な<神の御心>への従順と服従との成果である」と論じている(Drucker, 1959, 訳書, 220ページ)。

最終的に、ドラッカーは、「キルケゴールの信仰は、人間に死ぬという力を与えると同時に、生きるという力を与えたのである」(Drucker, 1959, 訳書, 223ページ)と結論づけている。

『フリードリヒ・ユリウス・シュタール:保守的国家論と歴史の発展』は、24歳のドラッカーが出版した処女作である(Drucker, 1933)。この著書は出版と同時にナチスに発禁処分された。ドラッカーはこの著書を出版すると同時に、イギリスへ移住した。というのは、伝統的保守派であるシュタールを再評価することは、ナチスへの異を唱えることを意味していたからである。以下では、ドラッカーがどのようにシュタールの思想を理解しているのかを見る。

ドラッカーは、シュタールの思想を「活力ある保守主義」と見なす。活力ある保守主義によって、シュタールは、復活と革命という不毛で硬直的な対立を超え、破局を回避しようとしたと理解される。図表3のように、ドラッカーは、シュタールの思想には基本的に4つの基本原理があるとしている。第1に、神の創造的人格という基本原理によって一体性と多様性の対立を克服する。第2に、両極性の原理によって、ヘーゲルの弁証法に注目する。第3に、道徳の国という概念によって、内向的意思と外向的意思の対立、権威と自由の対立を解消し、克服を図る。そして、第4に、歴史的観点から見た法の精神から、自然法と歴史学派の対立、人間の理性と天の意向の対立を解消する。これは、秩序と変化の対立と調和に関する原理を意味する。

図表3 シュタールによる4つの基本原理

ドラッカーは、こうした考え方をベースに、シュタールが真の立憲君主制を構築することで、復興と革命の対立、平等的な民主主義と封建的君主制、あるいは、絶対的君主制の対立を政治の世界で克服しようとしたと理解する。ドラッカーは、シュタールの思想が宗教的色彩の強い哲学と見なす。例えば、「すべての勢力をより高次元で不変な秩序、すなわち最上位の原理に基づくことで効果が広がっていくシステムのなかに組み込み、基礎づけることによって解決できる」(Drucker, 1933, 訳書, 102ページ)とする。シュタール自身は、ユダヤ教からプロテスタントに改宗している。シュタールは、ヘーゲルの影響を強く受け、世界を非合理主義と合理主義という2つの普遍の力が葛藤していると捉える。「宗教と哲学を一体化し、信仰のなかに哲学を基礎づけ、信仰によって意味を与えることであり、これがシュタールの業績の出発点であり、そしてこの出版点を見失うことなく、ここから徐々に政治学と政治の分野に進んでいった」(Drucker, 1933, 訳書, 103ページ)と述べている。

ドラッカーは、活力ある保守主義を標榜するシュタールが二者択一を認めず、しかも妥協を認めない教条主義者であると考えている。シュタールの出発点は、ヘーゲルとの格闘であった。シュタールは、ヘーゲルの核心的な問題である統一性と多様性の二元論を自らの体系の中心においている。弁証法によって、現実の対立、非合理の対立を否定することは可能であるが、それでは問題の解決にならない。合理主義的な解決は、既存の事実を説明することは可能であるが、合理主義的な解決には無理がある。理性によって対立を乗り越えることでは、世界を説明することはできない。そこで、シュタールは、理性の全能性と創造的人格の非合理性を対置させ、また、対立と総合の二元論を弁証法的に解消することについては、両極性を対置させるとドラッカーは解釈している。

両極性の原理は、何物も受け入れる人間的で創造的な神であるとされる。高次元に存在する無限の一体性のなかで、この神は、一体性と多様性を1つの絆によって結びつける。したがって、一体性と多様性はこの神の外で対立しているだけで、神の創造的人格のなかでは、これら2つは包含されることになる。一体性と多様性を結びつけることは、創造的行為である。人間の行為は、その有限性のために、神の行為と区別される。それ以外の面では、創造そのものとなる。人間の行為は、神の創造物である人間の性質によって決まるが、同時にその創造的人格または人間の一体性という理由から、絶対的に自由な存在である。

世界と人間は、創造物の側面と独立存在の側面を合わせもつ。その行為は自由であり、自らの責任で、自らの道を進む必要がある。自己の意思と他者の意思の対立も、権威と自由の対立も、より高次元の個体、すなわち自発的に神に服従する個体のなかで解消できる。創造物の側面では、人は神に服従する道徳的義務がある。独立存在として、必然的に人格を統治することが求められ、これが道徳の国という考え方につながる。道徳の国が、現世において、不完全かつ不十分に、しかも低次元に実現されたものが国家と呼ばれる。道徳の国では、国民とは異なる高次元の意思をもった権力者が必要になる。国家の権威は指導者の下になければならない。服従する者もまた、自由意思と個々の人格をもった人間である。彼が法律に従うのは、それが彼らの徳性を表し、彼らの求めに応えたものである場合に限られる。立法に参加し、税を納めることを通じて、おのれの権利を表明し、自らの自由が保護されると主張できる。

国家は独自の法律を備え、君主の生活や国民の生活とは異なる独自の性格を有する機関、つまり法治国家となる。このように、シュタールは、道徳の国という概念から、立憲国家、立憲君主制のドイツという概念を発展させる。国家は機関であり、国家であることは目的ではなく、より上位には超越したものとしてキリスト教国家がある。国家は、究極的には人間の自由に奉仕し、したがって、君主も自分の臣下のために奉仕しなければならない。国家は構成員の上位にあり、したがって、国家権力は、権力者を代表する。最高権力者が主権を有し、強力な権力の担い手となる。その権力には責任がともない、権力は責任を求める。君主は自分の利益よりも国益を優先し、臣下たちの権利を尊重する義務を負う。これに対して、臣下は正当な最高権力者への服従と愛、国家への献身と自己犠牲という義務を負う。ただし、宗教、学問、私有財産の自由を要求する権利がある。ここに、新たな秩序として、絶対君主を頂点に置き、国益のために王と国民が協力するという立憲君主制というモデルが確立される。

最後は、ドラッカーは、シュタールが提起する秩序と変化の対立と調和の問題を取り上げている。人間の不変の本性と不断の変化に関する認識をいかに調和させるか。世における安定かつ不変の形式と秩序は、不朽のもの、人間の力では変えられない。このような秩序によってのみ、この世のなかに意味と価値が与えられる。しかし、他方で、人間の生活を構成する特徴的な要素となるものとともに、決して永遠や不変ではない。したがって、崇高な秩序の下、新たな統一体のなかのあらゆる勢力を1つに結合させる努力を繰り返す必要がある。シュタールは、活力のある保守主義を標榜し、保守的国家を正当化する議論を展開したと理解される。

『「経済人」の終わり』の出版

『「経済人」の終わり』の出版

本節では、ドラッカーの出世作である『「経済人」の終わり』を取り上げる。ドラッカーは、1933年にハンブルク大学の助手を解雇されると、『フリードリヒ・ユリウス・シュタール』を出版し、その後すぐに、イギリスへと移住した。また、1937年にはアメリカへと移住し、ジャーナリストとして働き始めている。ドラッカーは、1933年から『「経済人」の終わり』の執筆を開始し、1936年にはその一部をなす『ドイツのユダヤ人問題』を完成させている。

ドラッカーは、『「経済人」の終わり』の結論が極端であり、広く一般的に受け入れられるかどうか、確信をもつことができず、出版をためらっていた。しかし、1939年になると、いよいよ第2次世界大戦が勃発し、自らの主張が現実になり始めると、出版を決意し、出版社を探し始めた。ところが、出版社探しは難航し、さらに、出版社からは表現をあいまいにするように修正するに求められた。それでも1939年、独ソ不可侵条約が結ばれる前に、『「経済人」の終わり』は出版された。チャーチルが書評を書き、『「経済人」の終わり』でナチスとソ連が手を組むという予想が見事に当たったこともあり、注目を集めて、ベストセラーになった。

ドラッカーは、『「経済人」の終わり』において、なぜ、ナチスによるファシズムが力をもつに至ったか、を考察している。アーレントによる『全体主義の起源』という書があるものの、政治、経済、社会という視点からファシズムを本格的に論じたものは限定的であり、今日においても『「経済人」の終わり』が出版された意義は大きいと考えられる(Arendt, 1969)。『ドイツのユダヤ人問題』では、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別がどのようなもので、近代社会に入ってどのように変容してきたのかを論じているが、『「経済人」の終わり』では、最終的にナチズムがどのようにして、ユダヤ人へのホロコーストへと導かれていったかを考察している。

ドラッカー自身は、『「経済人」の終わり』における自らの貢献をナチスとソ連が同盟を組むことを予測したこと、全体主義の問題をアーレントに先んじていち早く論じたことと考えている。『フリードリヒ・ユリウス・シュタール』に関する著書が処女作であるが、ドラッカーが広く一般に読まれるようになったのは、『「経済人」の終わり』によってであり、出世作といえるだろう。また、その出版は時宜を得たものであり、第2次世界大戦のまっただなかである1939年に刊行されている。以下では、『「経済人」の終わり』でどのようなことが論じられるのか、その概要を見る。

『「経済人」の終わり』は、なぜ、ナチズムおよびファシズムが世界を席巻することになったかを本格的に論じた書であり、ドラッカーは、そのまえがきで、「本書は政治の書である」と宣言している。前述したように、ドラッカーは、本書を1933年、ヒトラーが政権を握った直後から執筆を始めている。しかし、あまりに衝撃的な結論であったので、出版を見合わせていた。しかし、自分が書き記したことが実際に現実化するなかで、出版を決意する。しかし、今度は、あまりに極端な結論であったので、なかなか出版社を見つけることが困難であった。

『「経済人」の終わり』の1969年版まえがきで、ドラッカーは、「ヒトラーの反ユダヤ主義がその内部力学によってユダヤ人抹殺という『最終解決』まで進まざるをえないこと、西ヨーロッパの強力な軍事力をもってしてもドイツの侵略には対抗できないこと、また、ヒトラーがいずれはスターリンと手を結ぶことを予測していた」を論じたとしている(Drucker, 1939, 訳書, 262ページ )。そのために、多くの批判を寄せられる可能性があり、共産主義者には、反共の書として激しく非難されることになった。

その著書は、なぜ、ナチズム、ファシズム社会主義が権力を握ることになったかを論じている。ドラッカーにとっては、「一人ひとりの人間が社会と政治の信条から疎外されたことこそが、本書の中心的な命題だった」と述べている(Drucker, 1939, 訳書, 262ページ)。また、ドラッカーとしては、キルケゴールを現代政治に関わりをもつ近代思想家として位置づけた最初の書であると自負している。『「経済人」の終わり』の主題は、信条の興隆ではなく、権力の興隆を論じることであり、その筋立てを構成するものは、精神の苦悩ではなく、政治、社会、経済であった。

ドラッカーは、大衆が雪崩を打ってファシズム全体主義に傾斜した原因を近代社会が構築してきた政治信条に対する幻滅にあると論じている。それらの信条とは、民主主義、資本主義、マルクス社会主義である。特に、マルクス社会主義が政治と社会の理解に失敗したことが、ファシズム全体主義の興隆の決定的で究極の原因であると見なしている。そうしたなかで、ヨーロッパの大衆は、「魔物たちの再来」に襲われたとしている。モダンの中心的な考え方には、社会は合理的なものにしうるという信念、つまり、社会に秩序をもたらし、社会をコントロールし、理解することは可能であるという信念が存在していた。しかし、これらの信念が、恐慌や戦争という魔物の前でもろくも崩れ去ったと指摘されている。

さらに、ドラッカーは、宗教の可能性についても考えていた。教会に成功の可能性があったこと、新しい社会の基礎を形成する可能性があったとしている。つまり、ドラッカーは、教会を政治的対抗勢力、政治的聖域として捉えていた。しかし、結局、宗教はヨーロッパの社会と政治に基盤を与えることができなかったと結論している。つまり、教会は大衆の絶望に対して応えることができる存在ではなかったと論じている。

このように、恐慌や失業は民主主義と資本主義への失望を生み出した。また、階級を解消することでそれらの問題に対処すると期待されたマルクス社会主義が何の解決も与えないことが明らかになった。さらに、宗教も大衆への希望を与えないという状況が生み出され、社会、経済、政治に真空が生み出された。ドラッカーは、こうしたことが重なるなかで、そこを巧みに埋め合わせたファシズム全体主義が席巻する条件が作り出されたと考えている。

本書のタイトルになっているように、経済的成功を追求することで、秩序を生み出すというビジョンは、資本主義において失敗し、その代替として期待された社会主義は失望を生み出したというのがドラッカーの主張である。経済的なものを中心に秩序を形成するという可能性がなくなり、「経済人」の終わりという結論に至ったと考えることができる。それでは、資本主義の失敗、社会主義への失望はどのような社会を導いたのか。

ドラッカーは、マルクス社会主義への失望は、単に権力の交代でしかないことを明らかにしただけであったとしている。ファシズムには何のビジョンもなく、ただ、権力を奪取することだけが目的になる。新たに統治者となった者も、既存の権力と機構を維持せざるをえないことをはっきり認識させることになった。したがって、ファシズム全体主義がこれといった主張や信条をもつことなく、権力を奪取することを狙ったのである。ユダヤ人排斥もナチスの基本的な考え方ではないという。ファシズム全体主義自体は、何も明確な主張はなく、これまで提案されてきた民主主義、資本主義、社会主義を否定するだけであり、何もこれに代わるものを提供するものではなかった。何もビジョンも目的もない権力がその力を正当化するために、ユダヤ人を資本主義の権化とし、絶滅するというプログラムを形成することにつながっていたと論じている。

ファシズム全体主義は、資本家と手を結ぶ国家資本主義のように理解されることもあるが、ドラッカーは、ナチスの政策は徹底して、反経済的なものであることを論じている。失業対策には一定の成功を収めているものの、その経済政策は全く有効なものではないとしている。例えば、軍事への投資は一方的な消費であり、生産を生み出し、社会を豊かにするものではなかった。富裕層から収奪し、国民全体に対しては最低限の生活を保障するだけであり、資本主義に代わり、豊かな社会を生み出す仕組みはどこにも構築されていないという。つまり、ナチスは国家のイニシアティブによる資本主義ではなく、徹底して、反経済的な政策を推進したとドラッカーは見ている。

おわりに

おわりに

本稿では、ドラッカーの原点を探るべく、生い立ちとキャリア、基本思想、著作をレビューしてきた。その結果、わかったことをいくつかまとめると以下のようになる。

ドラッカーは、ヨーロッパの伝統的な知識人としての教育を受け、高い教養を身につけていることがわかる。何か、特定の学問に関する専門家というよりも、政治学、経済学、社会学、哲学など、多様な学問の成果を縦横無尽に駆使している。

若いときに受けた文章作成の訓練がドラッカーのベースにあり、文筆家としてのアイデンティティを形成している。実際、キャリアとしては、自ら取材、観察、調査したことを記述するというジャーナリストのスタイルを確立している。学問的なバックグラウンドと観察、経験したことを統合するというドラッカー独自の研究方法を確立している。政治的なスタンスとしては、政治活動、あるいは実践からは一定の距離をとって、観察者の視点から批判的に問題を鋭く捉えるというやり方を採用している。

キルケゴール、あるいは、シュタールなどに関する著作から、ドラッカーの基本思想には、自由、責任ある選択、秩序、保守主義などの考え方がその中核にあることがわかる。これらがいかに個人と社会が形成されるのか、個人と社会の対立、葛藤、矛盾のなかで、いかに、問題を克服して生きるかがドラッカーの原点になっていると考えられる。

『「経済人」の終わり』は、政治学の領域で高く評価を受けたものの、実際には、政治学だけではなく、経済学、社会学、哲学の視点から、なぜ、ファシズム全体主義が生まれたかを考察するとともに、時論として、社会に対して問題提起を行う書として屹立している。

ドラッカーは、アメリカに居を移して、次第に、社会的、統治的、経済的制度としての企業に目を移し、そのマネジメントの解明に進んでいくが、ドラッカーの原点にあるものからそのスタンスを崩すことなく、自由、責任ある選択、秩序を社会にもたらすものを追求していくことになる。これらのテーマが次回以降に論じていることになるだろう。

謝辞

井坂康志先生には、貴重な『ドイツのユダヤ人問題』の英訳を共有いただいた。記して、感謝申し上げる。

参考文献一覧

Arendt, H. (1969) The origins of totalitarianism, World Publishing, Cleveland, OH (大久保和郎・大島通義・大島かおり訳『全体主義の起源 1・2・3』みすず書房、2017年) 。
Beatty, J. (1998) The world according to Peter Drucker, Free Press, New York(平野誠一訳『マネジメントを発明した男 ドラッカー』ダイヤモンド社、1998年)。
Drucker, P.F. (1933) Friedrich Julius Stahl: Konservative Staatslehre und Geschichtliche Entwicklung, Mohr, Tuebingen(DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部訳『フリードリヒ・ユリウス・シュタール 保守的国家論と歴史的発展』DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2009年12月号、99-121ページ)。
Drucker, P.F. (1936) Die Judenfrage in Deutchland, Gsur, Wien (https://ccdl.claremont.edu/digital/collection/dac/id/3415/)2024年11月15日閲覧。
Drucker, P.F. (1939) The end of economic man: The origins of totalitarianism, John Day, New York(上田惇生訳『「経済人」の終わり』ダイヤモンド社、1997年)
Drucker, P.F. (1954) The practice of management, Harper, New York(上田惇生訳『現代の経営 上・下』ダイヤモンド社、2006年)。
Drucker, P.F. (1959) Gedanken fur die Zunkunft, Econ Verlag., Düsseldorf(清水敏允訳『明日のための思想』ダイヤモンド社、1960年)。
Drucker, P.F. (1979) Adventures of bystander, Harper & Row, New York(上田惇生訳『ドラッカー わが軌跡』ダイヤモンド社、2006年)。
Drucker, P.F. (2009) (牧野洋訳・解説『知の巨人 ドラッカー自伝』日本経済新聞出版社)。
井坂康志(2018)『P. F. ドラッカー マネジメント思想の源流と展望』文眞堂。
井坂康志(2023)『ドラッカーと日本的経営 ーコミュニティ, 社会, 知覚を中心にー』ものつくり大学紀要 第 12 号、33-40ページ。
井坂康志(2024)『ピーター・ドラッカー 「マネジメントの父」の実像』岩波新書、近刊。
Kantrow, A. M. (1980) Why Read Peter Drucker? Harvard Business Review, 58(1-2).
Kierkegaard, S. (1962) (『キルケゴール著作集5 おそれとおののき 反復』白水社)。
Krames, J.A. (2008) Inside Drucker’s brain, Portfolio, New York(有賀裕子訳『ドラッカーへの旅』ソフトバンククリエイティブ、2009年)。

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