「価値思考」で未来を切り拓く イベントREPORT
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伊藤 邦雄KUNIO ITO
一橋大学大学院 経営管理研究科
特任教授1975年、一橋大学商学部卒業。一橋大学大学院商学研究科長・商学部長、一橋大学副学長を歴任。中央大学大学院戦略経営研究科特任教授。商学博士(一橋大学)。経済産業省「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクトで座長を務め、その最終報告書である『伊藤レポート』は海外でも大きな反響を呼び、その後の日本のコーポレート・ガバナンス改革を牽引した。さらに、経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」でも座長を務め、『人材版伊藤レポート』を通じて、人的資本経営による価値創造の重要性を訴求。「強い意志で未来を柔軟に創り変える」(“Build Forward Better”)というメッセージは、各企業に大きなインパクトをもたらしている。
人的資本経営をどう具体化し、実践に移していくのか。「企業価値経営」をテーマに、企業の枠を超え、部門の垣根を越え、学び合うシリーズ講座「『価値思考』で未来を切り拓く」(主催:リンクアンドモチベーション)が8月4日、東京都内で開催された。一橋大学CFO教育研究センター長・伊藤邦雄氏を講師に招き、全4回の講座を予定している同イベントをリポートする。
日本を代表する企業の部門責任者が集結。
これからの経営は、効率・管理といった概念から「価値思考」への転換が求められる。同イベントは「企業価値経営」をテーマに、知の交流と探究を行っていくというもの。金融、メーカー、通信、サービス……。日本を代表する企業から、人事・経営企画・サステナビリティなどの部門責任者たちが集結した。冒頭の主催者挨拶において、モチベーションエンジニアリング研究所上席研究員の林は「今、非財務情報の開示、人的資本経営をどう打ち出していくかが注目されています。このイベントの特徴は、あらゆる会社から、さまざまな部署の責任者が集まっていること。企業の枠を超え、部門の垣根を越え、双方向性の対話を行うことで、次世代の経営を革新するネットワークをつくっていきましょう」と呼びかけた。
続いて、登壇したのは、本イベントで講師を務める伊藤邦雄氏。同イベントに対する意欲を語り、その方向性を明確にした。
「よくぞ、これほどまでに多様な部門から集まってきてくれたと思います。本イベントを一方的に私が話して終わり、というものにするつもりはありません。こうしてリアルの場でお会いできたことを心からうれしく思いますし、どんどん皆さんを“指名”して、意見を求めていくことが楽しみで仕方ありません。それぞれが抱えている問題意識を大いに語ってください。それらを共有し、追究しながら、実践に活かせる知見を提供していきたいと思っています」
その後、講演に先駆けて、参加者たちの1分間プレゼンテーションが行われた。「独自性のある人的資本情報の開示を行いたいが、なかなか難しい」「人的資本経営の実現に向けて、ヒントを得たいと思い参加した」。参加したメンバーからは、それぞれの問題意識と目的が語られ、これから始まる知の探求への期待感は、否応なしに高まっていった。
TOPIX企業の半数が「価値毀損」。
第1回目となる講演では、「価値思考」への転換に向けて、どのようなポイントを意識すべきかが語られた。伊藤氏は「印象論だが、現代の企業経営はさまざまな要素が複雑に絡み合い、より難しいものになっている。10年前と比べると、ざっと3倍は難しい」と語り、昨今の企業経営・企業価値評価は“総合格闘技”的な要素が強くなっていると指摘した。「企業価値」を深く理解し、抽象論・枕詞にしないこと。企業価値評価の手法を理解し、それを構成する概念や用語に精通すること。CFOとCHROが互いの言語を理解し、コミュニケーションを深めること。「対話」のスキルを磨き、「ストーリーテラー」となること。無形資産たる企業文化を価値思考で再構築すること。コーポレートガバナンス改革の変遷を理解すること。企業経営はますます「表現方法」の競争になっていくこと。経営を担う各部門がそれぞれの「技」を活かし、組み合わせ、人的資本価値を高めていくことが必要だというのだ。
「経営者のアジェンダとは何か。それは、企業価値の創造です。皆さんが経営者のアジェンダと呼応していくためにも、この観点を持ち続け、深めていく必要があります。すべては企業価値の文脈に基づいている。企業価値は抽象論でも、枕詞でもありません。できるだけオペレーショナルに解釈して、実践に移していただきたいですね」
これからの企業に求められる「企業価値経営」。経済産業省の産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会では、これを「価値創造経営」と題し、その実現に向けた中間整理を打ち出している。「バランスシート経営改革」「バックキャスト型長期経営」「マネジメントスタイル改革」「アグレッシブな成長を目指すためのマネジメント・ガバナンス改革」「人的資本経営」という5つの軸で企業改革を推進し、「価値創造経営」を実現していこうというものだ。
「その企業が価値を創造しているかどうか。あるいは、どのくらい創造しているか。それを見る数値がPBRです。これが1を下回ると価値を創造するどころか、価値毀損をしているということになる。実際に、TOPIX 500社のうち、1倍割れが半数を占めるというデータが出ています。価値を創造するために経営しているはずなのに、ほとんどが価値破壊をしているわけです。一方で、米国株式「S&P500」の企業を見てみると、1倍割れしている企業はわずかに3%ですからね。政府も『猛烈な危機意識』を持っています」
ちなみに、同部会の中間整理では、その際、PBR が1に満たない民間企業に対し、1を超える(株式時価総額が純資産を超える)ための、一定期間(例えば5年間)における具体的かつ合理的な計画を立案し、公表することを求めている。まさに、現代の経営は“総合格闘技”。1つのことだけをやればいいという時代ではない。「伊藤レポート」や「人材版伊藤レポート」など、「企業価値経営」に向けたさまざまなガイドラインを参照しながら、独自の施策を打ち出し、資本市場と対話していく必要があると言えるだろう。
CFOとCHROの「共通言語」とは何か。
「企業価値経営」を実現するために、伊藤氏が強調するのが「分析→評価→価値創造」(図表1)のサイクルを押さえておくことだ。さまざまな会計・財務数値、業界構造・特性などの情報を駆使して、企業・事業の姿を正しく映し出すこと。資本コスト、無形資産、非財務情報、ESGを企業価値評価に組み込んでいくこと。そして、定量・定性指標を駆使しながら、投資家を含むステークホルダーと対話し、得られた知見を活かしながら、経営幹部や社員を巻き込んで戦略的に価値創造を実現していくこと。3つのサイクルが連鎖していなければ、どれほどすばらしい取り組みをしていても、企業価値には結びつかないというのだ。
また、伊藤氏は、コーポレートガバナンス改革は、経営のアジェンダそのものだとしたうえで、そこにある3つの工程が重要になることを指摘する。第1工程は、取締役会の活性化を梃子に、資本生産性(ROE、ROIC)を高め、投資家との対話を通じて企業価値を創造すること。第2工程は、ESG・SDGsの推進によるサステナブルな中長期経営を行っていくこと。そして、第3工程は、その土台をつくることだという。
「企業価値を実現するのは誰か。言うまでもありません。それは、人材です。人的資本経営の実践が第3の工程になる。これを私はりんごの図(図表2)を用いて、説明しています。左半分を示すのが『伊藤レポート』の内容で、右半分の要素が『伊藤レポート2.0』。そして、土台となるお皿の部分が『人材版伊藤レポート』にあたります。中には、私が急に人材について取り組み始めたという人もいますが、とんでもありません。突然、思いついたわけではなく、『企業価値経営』を考えると、この順番になるんです」
この図では、「取締役会の活性化を梃子にする」とある。そのためには、CEO、CFO、CHROがコミュニケーションを深め、経営戦略と人材戦略を連動させていかなければならない。だからこそ、伊藤氏は他方の言語を学び、お互いに目配りしていくことが必要だと強調している。
「お互いの言語を学ぶことが大切である一方、CFOとCHROには共通言語が存在します。これは、このイベントで皆さんにマスターしていただきたい要素の一つでもある。一つは、経済産業省が公表している『価値協創ガイダンス』。そして、もう一つは『TCFDフレームワーク』です。これを即答できた人は、相当な経営者だと思います。でも、皆さんの会社の経営者にこの問いを投げかけてはいけませんよ?『嫌味な奴だ』と思われてしまいますからね(笑)」
「価値協創ガイダンス」は企業と投資家の共通言語だ。そのフレームワークがCFOとCHROとなりうることは言うまでもないだろう。これを起点に企業のストーリーをつくり、語ることができれば、企業価値は抽象的な概念ではなくなる。
「私は、企業に対する役員研修でもこれを活用していますが、自分の部門しか知らない方は悶絶していますね。ですが、全社的視点を持ってもらうためには、極めて有用な素材であることは間違いありません。また、もう一つの『TCFDフレームワーク』は、ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標の4つで構成されています。これからは、ネイチャーポジティブな社会をつくるために、このフレームワークを基準にしたリポーティング、ディスクロージャーが広がっていきますし、世界における人的資本開示もこの世界的なフレームワークに則った形で行われているんです」
投資家の想像をかき立てるには?
昨今、「人的資本」というワードを頻繁に耳にするようになった。しかし、企業と投資家間の温度には、いまだに開きがあるようだ。実際にいくつかの金融機関で行われた調査を見ても、人的資本への関心は、投資家の方が強いという明確な結果が出ている。
「企業の人的資本投資情報の開示がうまくなければ、投資家にとって期待外れになってしまう。逆に、ストーリーテリングがうまくできれば、投資家のイマジネーションをかき立て、企業価値が上がるわけです。経営は『表現の競争』であるとは、そういうことです」
伊藤氏がポイントに掲げるのは、3つ。開示された人的資本情報が、経営者がIRなどで発信しているメッセージと整合しているか。経営戦略にレジリエントを感じさせうるものか。そして、それが投資家のイマジネーションをかき立てるものであるかどうか。特に、3つ目のポイントは、人的資本投資を開示していくうえで、極めて重要になるのだという。
「適所適材の人材が育成されているか。サクセッションプランはあるか。取締役会で人材の話をしているか。企業文化とどう関連しているか。役員報酬にKPIとして組み込まれているか。そうしたものが組み込まれていると、投資家は『企業の本気』を感じることができるようになりますよね。それが経営戦略の裏づけとなり、彼らのイマジネーションを刺激するのです」
「そして、講演の最後に、伊藤氏は「アート思考」の重要性を強調した。アート思考とは、価値を生み出す際の創造的・認知的活動のこと。これまでの一斉管理・効率志向とは真逆の価値観だ。アートは創造の言語であり、多様性の言語。これまでの日本は受験勉強などで「より早く、1つしかない答えに行き着く」ための力を磨いてきた。しかし、これからは優秀な人材の定義も変わっていくことになる。
「シリコンバレーの1兆ドルコーチとして知られるビル・キャンベルは、これからのリーダーに求められる資質は『ファーアナロジー』だと語っていました。想像力を飛躍させ、今の仕事に関係なさそうなところからヒントを引き寄せて、価値を生み出していく。これからのリーダーにすごく大事な力だと思います。これまでにない、独自の育成プログラムを打ち出すことなども、必要な取り組みかもしれませんね。人的資本投資の開示は、『比較可能性を重視したもの』と『会社の戦略やビジネスモデルに即した独自性あるもの』の2つが求められます。ただし、投資家からすれば、比較はできても、満足はできない。どれだけ独自性のあるものを出し、想像をかき立てられるかは皆さんの腕の見せどころだと思いますよ」
参加者の意見を交えながらの講演が終了した後、伊藤氏には多くの質問が寄せられ、名刺交換の大行列ができた。次回以降、同イベントではさらに「企業価値経営」を深掘り、双方向の議論を重ねていくことになる。ここで得られた知が日本の経営を大きく変える。ここに集ったリーダーたちがそれぞれの企業を牽引する。参加者たちの熱量に、輝かしい未来を感じさせられた。