Vol.5|流行りの経営理論の源流にある日本の経営技術③:リーン・スタートアップとトヨタ生産方式|経営コンセプトの力
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岩尾 俊兵Shumpei Iwao
慶應義塾大学 商学部 准教授慶應義塾大学商学部卒業、東京大学大学院経済学研究科マネジメント専攻博士課程修了、東京大学博士(経営学)。第73回義塾賞、第36回・第37回組織学会高宮賞、第22回日本生産管理学会賞など受賞。近刊に『13歳からの経営の教科書』(KADOKAWA)。
日本の組織はなぜ力を失ってしまったのか、それは組織内で働く個人にとってどんな問題を引き起こすのか、そこから抜け出すヒントはどこにあるのか。連載5回目となる今回は、シリコンバレー起業家たちを熱狂させた経営手法「リーン・スタートアップ」の本質について、その源流であるトヨタ生産方式から探っていく。
リーン・スタートアップとリーン思考
近年では、「リーン」という単語から多くの人が思い浮かべるのは、「リーン・スタートアップ」や「リーン・イン」だという。これは、生産現場で働く50代以上の方や、生産管理系の研究者など、日本の製造業に詳しい人には驚きだろう。ここで、リーン・スタートアップというのは、まずはプロトタイプを素早く作ってみて(Build)、早期に市場の反応を見て(Measure)、そこから学習する(Learn)というプロセスを高速で回していく起業方法のことだ。2011年にエリック・リースによって提唱されるやいなや、『The Lean Startup』は世界中でベストセラーになった。シリコンバレーの若手起業家たちはこぞって『The Lean Startup』を読んだ。モノがなければ顧客がつくこともないし、顧客がついていなければ、シリコンバレーの投資家は資金提供に二の足を踏む。そこで、簡単なプロトタイプでいいのでとにかくまずは製品を作ってみよう、というわけである。
そのうえで、実際のモノを自分たちで見て、また顧客や投資家に見せて、改善(Plan、Do、Check、Action)を繰り返していくことで製品やサービスの品質を向上させていけばいい、というのがリーン・スタートアップの基本的な考え方だ。リーン・スタートアップが流行するのには理由がある。それは、近年の企業、特にテック系スタートアップ企業は、VUCA(Volatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:曖昧性)と表現される、変化の激しい競争環境で経営を行っているためだ。こうした、変化が激しく見通しが立たない競争環境においては、どんなに高度な予測もほとんど役に立たない。
しかし、どんな大穴レースであっても、当たり馬券を100%の確率で引き当てる方法が、世の中には1つだけある。それは、「勝負が決まってから当たり馬券を買う」ということだ。これを、単なる冗談と捉えては本質を見失う。リーン・スタートアップや、その源流にあるトヨタ生産方式に通底しているのは、この思想だからである。すなわち、予測に基づいて見込みでモノを作るのではなく、売れるモノがわかった瞬間に「必要なものを」「必要なときに」「必要なだけ」すばやく作るという発想である。すなわち、リーン・スタートアップの本質は、市場の反応に最小のコストと最大の速度で反応することである。
リーン・スタートアップの源流としてのトヨタ生産方式
トヨタ生産方式は、機械の稼働率の最大化を目標とするそれまでのアメリカ式の生産方式への対案だ。つまり、たとえ機械の稼働率が低くなっても「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」作ることを目標とする生産方式を指す。必要なものを、必要なときに、必要なだけ作れるという究極の形は、受注生産である。しかし、企業はそう簡単に受注生産にはできない。受注生産にすると顧客を待たせることになり、待たせる間に他の会社に顧客を取られてしまうかもしれないからだ。そうすると不安になって完成品在庫を持ちたくなってしまう。
さらに、完成品在庫を許してくれるならば、中間在庫も増やして、とにかく機械を四六時中動かして在庫を増やせば「製品1個当たりにかかる機械設備などの固定費が小さくなる」ため、会計上は利益が出る。不安も解消してくれるし、会計上も有利なので、在庫はどんどん増えるというわけである。
しかし、実は在庫には材料費や人件費が投入されているし、倉庫での管理費もかかる。つまり、在庫は企業のキャッシュ・フローを圧迫しているのである。在庫は、会計上では減損処理されないかぎり有利だが、キャッシュ的には不利である。
トヨタ生産方式の歴史的背景とスタートアップの共通点
戦後直後のトヨタはこのキャッシュが足りなかった。労働争議の影響で実際の現金・キャッシュが足りなくなり、倒産寸前の危機に瀕したのである。その結果が、トヨタ自動車工業(株)とトヨタ自動車販売(株)への分社化だった。こうした痛い経験から、キャッシュを圧迫させない生産方式が求められた。それがトヨタ生産方式だったわけである。トヨタ生産方式は、在庫が本来持っていた経営上の利点を保持したまま、在庫の害悪をなくすために、「時間」に注目した。つまり、受注を受けて「すぐに製品を作れれば」在庫はいらないと気がついたのである。専門的には、生産リードタイムの短縮を目指したと表現される。
開発から生産までのスピード、材料が投入されてからそれが製品の形となって市場に出るまでのトータルの時間(リードタイム)を短縮することで、在庫をなくすデメリットを抑えつつ在庫が持つキャッシュ圧迫というデメリットを克服したのが、トヨタ生産方式だったわけだ。なお、アメリカにおいてトヨタ生産方式は「リーン生産方式」と名付けられた。名付け親は、現在、Google社(Alphabet社)の関連会社であるWaymo社のCEOを務めるジョン・クラフチックであり、公開資料としては1988年の「Triumph of the lean production system(リーン生産方式の勝利)」『MIT Sloan Management Review』が初出とされる。リーン生産方式は、その後、ジェームズ・P・ウォマック博士らによる書籍『The Machine That Changed the World』の出版とベストセラー化によって世界中に広まっていった。
それでは、これがどうスタートアップにつながるというのだろうか。すでにお気づきかもしれないが、実は戦後すぐのトヨタ自動車(株)とスタートアップには「お金がない」「会計上の利益ではなくキャッシュがない」という共通点がある。だからこそ、時間やスピードが重要なのである。モノをさっと作って、市場に出し、すぐにお金を回収する必要があるからだ。
究極のリーン企業としてのGoogle
究極の話、材料の買掛金支払期間よりも顧客からの売掛金回収期間のほうが短ければ、実は運転資金は0円でもいい。そんな会社があるだろうか。実はある。完璧ではないが、それに限りなく近い企業だ。それは、Google社などの情報通信産業に属する企業群である。これらの企業は毎日のように売上が上がってくるが、支払いの中心は人件費や開発費用であり、支払いまでには猶予がある。現代のスタートアップ、特にインターネットを主戦場としたスタートアップには、リーン・スタートアップの考え方が非常によく適用できる。トヨタ生産方式の究極の形はGoogle社なのである。
さて、ここまでを見てきて、読者の中には「さすがに日本の製造業がシリコンバレーのきらぼしのようなベンチャーに影響しているはずがないだろう」と思われる方もいらっしゃるだろう。『The Lean Startup』を読んだ人でさえ、である。しかし、この『The Lean Startup』をしっかり読んでみると、リーン・スタートアップという言葉の源流はリーン生産方式であり、さらにトヨタ生産方式であると著者自身によって何度も繰り返し明言されている。
この本では、スピード重視の経営「ジャスト・イン・タイム」、まずモノを作って確認する「現地現物」、問題が起きれば5回「なぜ?」と問うて真因にまでたどりつく「5回のなぜ」などトヨタ生産方式の言葉が使われる。また、大野耐一や新郷重夫といった、トヨタ生産方式の創始者たちの名前も本文に登場する。シリコンバレーベンチャーの経営の秘訣(の一部)を知りたければ、シリコンバレーを見学するのではなく、一見逆説的だが、日本の田舎にあるリーンな工場に出かけるべきなのである。