第3回 意味を構成するシステム
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徳安 彰AKIRA TOKUYASU
法政大学社会学部教授東京大学文学部社会学科卒業。同大学院社会学研究科博士課程修了。法政大学社会学部専任講師、同助教授、ビーレフェルト大学客員研究員、法政大学社会学部教授、法政大学社会学部学部長を歴任。共著に『社会理論の再興』(ミネルヴァ書房)、『理論社会学の可能性』(新曜社)など。
2回にわたるシステムをめぐる考察を経て、いよいよルーマンの社会システム理論について語るところにたどりついた。ルーマン理論へのアプローチにはさまざまなやり方がありうるが、今回はまず「意味」あるいは「意味構成」について考察する。意味概念は、社会学の歴史においてきわめて重要な位置を占めているが、その定義は困難をきわめる。たとえば2017年に刊行された『社会学理論応用事典』(丸善出版)では、「行為と意味」というセクションが設けられ、意味にかんするいくつもの項目が解説されているが、かならずしも意味概念を簡明に定義しているわけではない。その原因は、一方では社会学における意味概念が言語学や記号論における意味概念とは異なり、他方では形式的な定義よりも意味の内容の分析に重点をおいてきたことにある。ルーマン理論における意味概念も同様である。このコラムでは、意味の内容よりも意味がどのように構成されるのかという点に焦点を合わせて、考察を進めることにしよう。
はじめに
1回目のコラムの冒頭で述べたように、ルーマンの社会システム理論は、そもそもの構成が複雑なうえに、時期によって用いる概念が異なっており、どの時期に焦点を合わせるかによって、ルーマン理論の読解・解説の仕方も異なってくる。純粋に学術的には、年代を追ってルーマン理論の構成の展開あるいは変化をあとづけることも研究の一つの方策だが、このコラムではそのようなやり方をとらない。むしろ、比喩や具体例をもちいながら、ルーマン理論の主要な側面について(あえて全体像とはいわない)、直観的な理解ができるようにしたい。
ルーマンの理論構成が複雑なことは、本人がその名も「理解できない科学:理論固有の言語の問題」と題する論文のなかで説明している(Luhmann, 1981, pp.170-177)。この論文は、もともと1979年に書かれたもので、末尾に社会システム理論の主著となる『社会システム』(Luhmann, 1984)のもととなる、次のような構想図表が示されている(図表1)。
ちなみに、『社会システム』の目次はつぎのようになっており、若干の違いはあるが、おおむねこの理論構成図表に対応していることが分かるだろう。
第1章 システムと機能
第2章 意味
第3章 二重の偶発性
第4章 コミュニケーションと行為
第5章 システムと環境
第6章 相互浸透
第7章 個人としての心理システム
第8章 構造と時間
第9章 矛盾とコンフリクト
第10章 全体社会と相互行為
第11章 自己言及と合理性
第12章 認識理論にとっての諸帰結
図表1をひとめ見て分かることは、理論の主要な構成要素の関係が循環的になっていることである。それは、基礎概念や公理から演繹的に理論を組み立てることができない(すくなくともルーマンはそうしない)ことを意味している。もちろん、構想にもとづいて書かれた『社会システム』は、書物として直列的に主要な構成要素が記述されているのだが、内容的には図表1のような循環的な参照関係があり、それが読解をむずかしくしている。だが図表1をよく見ると、他の項目との関係をあらわす矢印が集中しているものがある。それが「5 意味」と「12 自己言及」である。今回は、その2つのうちの意味について考察する(ちなみに図表1は原著のままだが、意味と自己言及をつなぐ矢印が2本、どちらも自己言及から意味に向いている。正しくはどちらかが逆向きだと思われるが、最新のSpringer版にいたるまで修正されていない)。
社会学における意味の問題
社会学のなかで、「意味」を中心的な問題として最初に取り上げたのは、マックス・ヴェーバーである。ヴェーバーは、有名な『社会学の根本概念』の冒頭で、社会学は「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学」であると定義し、理解社会学の方法について論じた。そのさい、行為を「単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動」と定義し、さらに社会的行為を「単数或いは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為」と定義することによって、意味概念を社会学理論の中心に位置づけた(Weber 2014=1971, 訳p.8)。
ところが、そうはいいながら、ヴェーバーの議論の力点は理解の方法論にあり、理解の対象となる意味概念そのものをかならずしも明確に定義していない。まず、もっとも合理的に理解できる意味として、2×2=4のような数学的命題やピタゴラスの定理といった合理的知識、あるいは経験的に自明とされる目的−手段関係が例示されるが、究極的な目的や価値になると、解釈者自身のそれと根本的に異なるほど、感情移入的想像力によって追体験的に理解することが難しくなるとされる。他方、不安、憤怒、野心、嫉妬、猜疑、愛情、感激、自負、復讐心、信頼、献身、種々の欲望といったものは、解釈者自身が身に覚えがあればあるほど、明確にエモーショナルに追体験することができる、とされている。そのうえで、行為類型を構成するばあいには、純粋に目的合理的過程を構成したうえで、非合理的感情的な意味連関をそれからの偏向として扱うことによって、明確な解釈が可能になると論じている(Weber 2014=1971, 訳pp.10-12)。こうして、有名な行為の四類型である目的合理的行為、価値合理的行為、伝統的行為、感情的行為が、理念型として構成される。
このように、行為者が自分の行為に主観的に含ませる意味には、論理学や数学のような明晰で合理的な知識、宗教的信条や政治的思想のような究極的な目的や価値、さらにはさまざまな非合理的感情まで、多様なものが含まれている。意味の内容は、観念的なもの、あるいは言語的に表現できるものに限定することができない。とりわけ行為者の主観に準拠して考えたばあい、意味は、理性によって考えられたことだけでなく、理性を超えた信仰や信念、あるいは理性とは異なるかたちで引き起こされる感情や欲求をも含むからである。明晰な理解ができるかどうか、合理的な解釈ができるかどうかにかかわらず、行為者が自分の行為に主観的に含ませる意味の内容は多種多様であり、それをひとことで形式的に定義することはむずかしい。
この、直観的には何となく分かるが完全に明晰とはいえない意味の概念は、その後の社会学理論に広くひきつがれていく。パーソンズは、意味と行為の関連づけを、個人の欲求に由来する動機志向と文化に由来する価値志向に区分し、とりわけ行為にとっての規範的要素の重要性を強調した(Parsons/Shils (eds.), 1951)。シュッツは、フッサールの現象学にもとづいて、主観的な意味構成の過程を分析した(Schütz, 1932)。その後は、現象学的社会学、シンボリック相互作用論、エスノメソドロジーといったミクロ的な社会過程をあつかう諸学派が意味の問題を重視し、さらにルーマンの論敵でもあるハーバーマスは、コミュニケーション的行為という行為類型に注目して、意味の問題を論じている(Habermas, 1981)。これらはいずれも基本的には、行為者が行為に含ませた主観的な意味というヴェーバーの考え方を踏襲している。これに対して、個人主観にとどまらないシステム理論の観点から意味の問題を論じているのが、ルーマンである。これらを関係づけると、図表2のようになるだろう。
話は変わるが、言語学者の野林正路に『意味をつむぐ人びと』というタイトルの著作がある(野林, 1986)。人びとが生活世界のなかで、言語をどのように用いて身の回りの世界を意味的につむぎ出しているのかを、言語学的に解明しようとした研究である。意味を「つむぐ」とは、人びとの生活世界のなかにある事物を、さまざまな単語(とくに類義語)の組み合わせによって指し示すことをとおして、網の目のように世界に意味を張りめぐらせることを指している。生活世界における人びとの意味構成のありようを、みごとに詩的に表現したタイトルである。
これにくらべると、今回のコラムのタイトルとなっている「意味を構成するシステム」は、ルーマン自身がしばしば用いる言い回しではあるが、はなはだ無味乾燥で味気ない散文的表現である。だが、このタイトルは同時に、意味構成が個人の主観に収まらないとともに、生活世界にも収まらないことを示している。そのためにはむしろ、抽象化され、乾いた表現がふさわしい。ルーマンの立場から見ると、フッサール−シュッツ的、あるいはハーバーマス的な生活世界への執着に抗して、近現代社会の意味構成の実相を記述するためには、システムという概念が不可欠である。
分節化としての意味構成
では、ルーマン自身は意味をどのように考えたのであろうか。このコラムでは、ルーマンの意味の捉え方を、分節化、時間化、安定化という三つの観点から考えてみたい。
まずは分節化である。ルーマンは、しばしばイギリスの数学者スペンサー=ブラウン(George Spencer-Brown, 1923-2016)の『形式の法則』(Spencer-Brown, 1969)を引用して、区別と指し示しによる世界の分節化を説明している。何も意味構成の作為がなされていない世界の原初的な状態は「マークのつけられていない状態(unmarked state)」と呼ばれるが、そこに何らかの区別をする(=マークをつける)ことによって世界の分節化が始まる。ルーマンが取り上げて以来有名になったこのマークは、図表3のような鍵カッコで表され、鍵カッコの内側がAとして指し示されて世界から顕示的に際立たせられ、外側は非Aという分節化されていない潜在的な残余となる。だが、非Aという残余は、Aの指し示しによって消去されるのではなく、Aを際立たせるための背景として維持される。「いずれにせよ、いかなる区別の作動も、その区別に世界の残りとして、「標識をつけられていない状態」として関わるものを、完全に排除することはできない」(Luhmann 1990: p.18)。それは図表としてのAに対する地としての非Aと見てもよい。ちなみに、markという言葉には「傷をつける」という意味がある。世界の原初的な状態としてのマークのつけられていない状態とは、傷のつけられていない状態でもあることに留意しておこう。
この区別と指し示しによる分節化された世界の構成という考え方は、ルーマンのオリジナルというわけではない。区別によって世界に差異をもたらす(Aは非Aと異なる何かである、とみなす)ことが、世界を意味的に構成することだという考え方を、ルーマンはしばしば差異理論と呼んでいる。ソシュール以来の言語学は言語を差異の体系とみなしているし、哲学では伝統的な同一性重視の立場から差異重視の立場への転換が進んでいる(中岡, 1998)。ルーマンのいう差異理論は、このような二十世紀の思想的潮流を指しており、ルーマン自身の意味構成の考え方もこの潮流の一つとして位置づけることができるだろう。
認識論的にいえば、この区別の始まりは自他分節である。あるいは主体と客体の区別といってもいいし、ルーマンが好む言い方ではシステムと環境の区別、観察者と観察対象の区別といってもいいだろう。いったんこの区別が成立すると、あとは認識の主体としてのシステム/観察者が環境/対象をさらに区別によって分節化して認識するという過程が発生する。しかし、認識主体としてのシステム/観察者は、世界を超越する観点あるいは世界の外部の観点から世界を見ているのではなく、あくまで自己自身をふくむ世界のなかで世界を見ている点に留意しておこう。なぜなら、自他分節という最初の区別は、世界のなかで認識主体を指し示し、際立たせるものであって、認識主体を世界の外に超越させるものではないからである。したがって、世界を認識することは非Aだけを認識することではなく、Aと非Aをともに認識することである。この自己言及的な認識の構図表を、ルーマンはスペンサー−ブラウンのre-entryという考え方を用いて、再参入あるいは再導入と呼んでいる。
ここで、まったく異なる文脈から、ルーマンの分節化の議論の理解のヒントを提示してみたい。中国の『荘子』の一節に、渾沌(混沌)をめぐる次のようなエピソードがある。
南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。儵と忽はときどき渾沌の土地で出あったが、渾沌はとても手厚く彼らをもてなした。儵と忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれにも(目と耳と鼻と口との)七つの穴があって、それでみたり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この渾沌だけはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。(『荘子』内篇、応帝王篇、p.235-236)
中央の帝である渾沌は、その名の通り、ふつうの人間の目鼻立ちをもたない、つまり目鼻立ちが無分節な相貌をしている。儵と忽は、渾沌のもてなしに報いるべく、良かれと思って人間の顔にある七つの穴をあけていくのだが、その結果、渾沌は死んでしまう。ちなみに儵と忽は、どちらも時間の短さ、速やかさ、儚さを表す語であり、このエピソードはしばしば拙速な浅知恵がもたらす愚かな結果として解釈される。だがこのコラムのテーマである「意味」に引きつけて考えると、無分節で無限の生命力と可能性をもった世界が、分節化によって傷つけられ、分節化された有形の秩序の生成とひきかえに生命力を失ってしまう、と読むことができるだろう。意味を構成するとは、つねに世界を何らかのかたちで分節化し、世界に秩序をもたらす(押しつける)ことであるから、それは同時に世界の根源的な状態としての渾沌を傷つけ、その生命力を奪ってしまうことにほかならない。
このような老荘思想的な世界観、あるいは禅的な世界観は、私たち日本人にとっては比較的なじみがあり、直観的に分かりやすい。この世界の本質は渾沌であり、知的に分節化して捉えることができず、認識主体である私たち自身が自他分節を放棄して、世界そのものと融合することによって、はじめて経験することができる。その境地は、方法的には瞑想をとおした解脱であり、認識論的には主客の合一である。しかしまた、世界を意味的に構成することが分節化によってはじめて可能になるとするならば、私たちはつねに世界の本質に到達する可能性を犠牲にしながら、あるいは世界を損ない傷つけながら、世界に接していることになる。
このようなヒントをふまえると、スペンサー−ブラウンの形式による区別にもとづく、ルーマンの次のような文章も理解しやすくなるだろう。ちなみにルーマンは、文中の「マークの付けられていない状態をふたたびつくり出す」操作として、一定の瞑想の技法を注釈で挙げていることも、指摘しておこう。
形式が消滅するとしたら、境界のマーク付けを抹消する場合だけだが、それは何も観察することのできない「マークの付けられていない状態」をふたたびつくり出すことである。だから形式概念は、世界概念であり、自己自身を観察する世界を表わす概念である。それは、区分による、デリダのいう「エクリチュール」による、システム理論のいう諸システムの分出による、世界の損傷を示している。それは、損傷した世界を、観察能力(いかなる形式であれ)の組み込みによって観察不能になるものとして保持する。それは、世界を無効にするのではなく、ただ——原罪を犯した者の遠い末裔として——一方の側からもう一方の側に行くために仕事と時間が必要になるような世界に変換するだけである。あるいはすでに示唆したように、時間そのものがパラドックス的に——つまり二つの側の同時性として、かつ(この時間形式の一方の側では)指示されうる位置のこれまで/これからとして存在する形式として——しか観察されえないような世界に変換するだけである(Luhmann 1990: p.18)。
渾沌のエピソードでは、渾沌は目鼻立ちという形式をあたえられることによって死んでしまう。しかしルーマン理論では、無分節な渾沌としての世界は、区別によって傷=マークをつけられ、全体としてまるごと観察することはできなくなるものの、それじたいが消滅させられるのではなく、保持される。観察しようとすることによって観察することができなくなる世界──ルーマンがしばしば言うように、これが世界認識の根源的なパラドックスである。
時間化としての意味構成
区別による分節化によって、世界は差異の体系へと編成される。そのさい重要なのは、認識に先立って、世界が同一性をもつ事物や事象によって満たされているのではなく、認識(区別)によって差異にもとづく同一性をもつ事物や事象に編成される、ということである。しかも、認識主体は、つねに世界のなかのすべての事物や事象を均等な重みづけで認識しているのではなく、そのつど関心をむける事物や事象に焦点を合わせて、もっぱらそれのみを認識しているのであって、世界全体を同時に一気に認識するわけではない。
また認識は、それが個人の意識のなかで行われようと、社会システムのコミュニケーションのなかで行われようと、特定の事物や事象にとどまりつづけることはない。むしろ、関心の対象はつぎつぎに移り変わり、関連性の内容も変化しつづけていく。ここに認識(=世界の意味的構成)が時間化される契機がある。そのときどきで焦点となる事物・事象の同一性が他の可能性との差異関係のなかで規定され、それ以外の事物・事象の可能性は後景に退く。その構図表が時間とともに変化していくのである。このような時間化された意味構成のあり方を模式的に表現すると、図表4のようになるだろう。
たとえば、街で待ち合わせをするとき、私たちは待ち時間のあいだに、広告の看板に目をやったり、道行く人が連れている犬に目をやったりしながら、相手が来るのを待つ。広告看板も車も、同時にそこに存在しているはずだが、私たちの関心によって意味的に構成される街角は、ある瞬間には化粧品の広告だったり、つぎの瞬間には犬だったりするのであり、遠くからやってくる人物が待ち合わせの相手のように見えた瞬間に、たしかにその相手かどうかを確認するのである。広告に目をやるときには、それ以外の街の風景は後景に退き、それが何の広告であるかを(化粧品であって宝飾品や服ではない、口紅であってアイシャドウやファンデーションではない、さらには口紅の色は深紅であって他の色ではない、といった具合に)確認する。犬に目をやるときには、先ほどの広告もふくめてそれ以外の街の風景は後景に退き、こんどはその犬の種類が何であるかを(犬であって猫ではない、柴犬であってトイプードルやブルドックではない、幼犬であって成犬ではない、といった具合に)確認する。待ち人らしき人物が見えると、それがほかならぬ待ち合わせの相手であって人違いではないことを確認する。
以上の過程は、おもに個人の意識の動きに焦点を合わせた内容だが、コミュニケーションの話題の推移におきかえても、ほぼ同じことが成り立つのは、比較的分かりやすいだろう。もちろん、意識にしてもコミュニケーションにしても、構成される意味の内容はもっと複雑で豊かである。化粧品であれば、口紅についての好み、口紅にまつわる過去の思い出などが、犬であれば、やはり犬についての好みや知識、幼犬の可愛らしさや老犬が死んだときの悲しみなども含まれるだろう。待ち人についても、たんに当人であることを確認するだけでなく、にこやかな表情なのか澄ました表情なのか、どんな服装なのか足取りなのか、細かい観察がふくまれるだろう。
このように見てくると、意味構成は時間の流れのなかでたえず更新されていく過程であることがわかる。世界を一瞬にして無時間的にすべて捉えるのではなく(区別による意味構成ではそれが不可能なことは、先の引用文が示すとおりである)、そのときどきの関心と必要におうじて、その一部だけに焦点を合わせて事物や事象の同一性を確認し、その他の部分の認識の可能性を後景に保留するというやり方で、全体として世界を保持するのである。
以上のような見方をふまえれば、ルーマンのつぎのような文章も理解しやすくなるだろう。
意味それ自体の不安定性の捕捉とその処理という意味に特有の戦略は、接続している諸情報処理のために差異を使用することのなかにあると考えられる。そのつどいろいろ変わるものは、けっして志向の「対象」ではない。そうではなく、意味処理は、現時性と可能性との意味構成的な差異の絶えざる新たな形成なのである。意味は諸可能性の継続的な現時化にほかならない。しかしながら、意味はその時点で現時的なものと可能性の地平との差異としてのみ意味でありうるのであり、それぞれの可能性の現時化は、つねにまたそのことに基づいて接続可能な諸可能性の潜勢化に行き着いている。意味の不安定性の核心は、その現時性の中核を保持できないことに存している。言い換えれば、意味の再安定化の可能性は、すべての現時的なものが、可能性の提示の地平においてのみ意味を有しているということによって与えられている。しかも意味を持つということは、まさしく次のことを言い表している。すなわち、そのときどきに現時的なものが、色あせ、間引かれて、それ自体の不安定性そのものからしてその現時性を放棄するや否や、それに接続可能な諸可能性のうちのあるものがそれに続く現時性として選択されうるし、されなければならないということである。そこで、現時性と可能性の差異は、時間的に異なる取り扱いを可能にしており、と同時に可能性の提示に沿ってそのときどきの現時性の処理を可能にしている。そのことからすれば、意味は、現時化と潜勢化の統一なのであり、意味自体が推進している(システムをとおして条件づけることが可能な)過程としての再現時化と再潜勢化の統一にほかならない(Luhmann 1984=訳1993: pp.101-102 ただし訳の原文の「顕在性」「顕在化」は「現時性」「現時化」に修正してある)。
ルーマンは、意味構成は諸可能性の継続的な現時化だという。現時化とは、いまここで現実のものとして顕在化することである。そのとき、現時化する可能性が選択されるのに対して、他の諸可能性は現時的なものとしては否定される。否定はされるが、現時化した可能性との差異関係のなかで潜在的に保持される。現時化した可能性は、それじたいが単独で同一性をもつのではなく、否定された潜在的な諸可能性との差異関係のなかではじめて同一性をもつ。選択されず現時化されなかった諸可能性は、現時化した可能性に対する地平を形成する(図表4では、他の可能性と表示されている部分と後景と表示されている部分は、いずれも現時化されなかった可能性であり、あわせて地平を形成するとみなされる)。さらに、現時化した可能性は、「他のようにもありえた」という意味でたまたま選択されたにすぎず、様相論的な観点からは必然的ではなく偶発的(偶然的)とみなされる。これが、複雑性の縮減という有名なフレーズの意味である。
さらに複雑性は時間化される。これまで説明したように、世界の認識=意味構成は時間化されるから、ある時点で偶発的に現時化した可能性は、つぎの時点では後景となる地平に退き、他の可能性が現時化する。このとき、意識の思考やコミュニケーションのテーマが、ある時点での選択に依存することなく、つぎの時点で完全にランダムに転換する(思考内容が脈絡なく飛び移る、コミュニケーションの話題が唐突に飛び跳ねる)ことがありえないわけではないが、一般にはある時点での選択がつぎの時点での選択の可能性の地平を開く条件となる。ある時点とつぎの時点における選択は、そのようなかたちで接続される。とりわけコミュニケーションが継続するためには、この接続が重要である。
安定化としての意味構成
さて、ここまでルーマン理論にもとづいて、分節化、時間化による意味構成の構図表を見てきたわけだが、私たちの日常生活において、この意味構成の過程は、そのときどきでつねにゼロから行われ、かつまたすぐに消え去るようなものなのだろうか。あるいはもっと安定した持続的なものなのだろうか。
ルーマンは、出来事という概念をもちいて、意識もコミュニケーションも時間の流れのなかでつぎつぎに生じては消えていく出来事として描いている。たしかに、意味構成としての特定の可能性の現時化という契機を考えれば、まさに今ここで意味的に構成されている世界は、構成されては消滅していく生生流転の過程の一場面にすぎないだろう。だが私たちは、いわばたえず場当たり的に世界を意味的に構成し、つぎの瞬間には何ごともなかったかのように、また異なるかたちで場当たり的に世界を構成することを繰り返しているわけではない。むしろ、世界が確固としてそこに実在しているかのように、意味構成を安定化させ、固定化させ、自明化させていく。事物や事象の同一性は、そのつど他の可能性との差異関係のなかで特定されるが、この安定化、固定化、自明化というメカニズムによって、事物や事象が同一性を保ったまま存在しつづけているかのように世界が構成される。
時間化についての例をふたたび引けば、街で見る看板が広告看板であること、看板に描かれたものが化粧品であること、さらには口紅であることは、今そこにある具体的な個物としての広告看板については、たしかにまさにその瞬間に意味構成されたものだが、そもそもそれが広告であり、化粧品であり、口紅であり、深紅であることは、その瞬間の意味構成にとって自明の前提になっている。なぜなら、私たちはその瞬間に、あの四角いボードに描かれた筒の先に深紅の色のついたものが何であるかと問うところから認識を始めるわけではないからである。うるさくいえば、四角いボード、筒、深紅といったことさえ、すでに自明の前提であり、ほんとうにゼロから意味構成を始めるのであれば、その一つ一つを問い直し、区別と指し示しによって意味づけていかなければならない。
つまり、そのときどきの瞬間的な意味構成の背後には、もっと持続的で一般化された意味構成のフォーマットのようなものがあって、私たちはその助けをかりてそのときどきの意味構成を行っていると考えることができる。さもなければ、瞬時に処理すべき情報量が多すぎて、頭がパンクするだろう。意味構成のフォーマットは一般化されている。広告、化粧品、口紅、深紅といったフォーマットは、そのときどきの意味構成において特定の個物を指し示すためにもちいられるだけでなく、別の時点で別の個物を指し示すためにももちいることができる。だからこそ、ある通りとつぎの通りにある広告看板を「同じ」ものとみなすことができるし(一般化)、昨日見た広告看板と今日見たものを「同じ」とみなすことができる(反復)。同一性は、差異関係のなかで成立すると同時に、一般化と反復によって安定化、固定化され、自明化される。また、この安定化の働きは、様相論的に偶発的なものとみなされる意味構成を、必然的なものであるかのように思わせる。
意味構成は、私たちの身の回りの事物や事象のすべてについて行われる。社会生活についていえば、かりに私たちが、いつ何が起こるか、誰が何をするのか、まったく分からない状態にあるとすれば、それはスリリングではあるかもしれないが、まったく先が読めず、どう行為していいのか分からずに途方に暮れる状態であり、混沌とした五里霧中の状態である。何ごとにも目鼻をつけることが大事であり、それによって私たちは秩序ある状態のなかで先の見通しをもって行為することができるようになるし、他者の行為を予測することができる。つまり、安定的に意味構成された社会的世界のなかで、はじめてそのつど瞬時に判断して行為を選択することができる。さもなければ、事物の認識と同じように、瞬時に処理すべき情報量が多くて、頭がパンクするか、いつまでも考えあぐねて行為を選択できずに立ち往生するだろう。
社会的世界のなかで時間化された意味構成をするということは、過去の経験にもとづいて未来の他者の行為を予期するということでもある。社会的世界のなかでは、複数の人間がたがいに相手の行為を予期し、相手に予期された状態で自分の行為をするわけだが、予期の選択も行為の選択も、現時化された可能性として見ると、他の可能性との関係において様相論的に偶発的であり、しかもそれが自己と他者について相互に成り立つ。これが、ルーマンのいう意味での、社会関係における二重の偶発性(ダブル・コンティンジェンシー)である。じっさいの社会過程では、予期は的中することもあれば外れることもある。予期が的中すれば、予期という形式での社会的世界の意味構成は維持されるだろう。しかし、予期が外れた場合には、二通りの可能性が考えられる。一つは学習によって予期を変更する可能性(認知的予期)、もう一つは予期が外れたという事実に抗して予期を維持する可能性(規範的予期)である。
社会学のなかでは、一般に規範的予期を強調し、重視する傾向がある。典型的に取り上げられ、かつ批判されることが多いのは、パーソンズの社会システム理論である。パーソンズの理論では、予期を内面化する社会化が予期を規範化するメカニズムとして考えられ、予期からの逸脱に対するサンクションによる社会統制が、いわば事実を規範に合わせて矯正していくメカニズムとして考えられている。社会システムにおける秩序が安定的に維持されるためには、予期からの逸脱を抑止することが重要だと考えられている(Parsons 1951: Chap.VI & VII)。もちろんパーソンズは、予期が必ず的中し、逸脱の一切ない社会を理想としたわけではない。第2回のコラムで紹介したホメオスタシスの理論に依拠して社会秩序の維持を考えたパーソンズにとって、社会統制は、有機体が動的均衡というかたちで血糖値や体温などの恒常性を維持するためのフィードバック・メカニズムに相当するものだった。
これに対して、パーソンズのもとで学んだこともあるガーフィンケル(Harold Garfinkel, 1917-2011 アメリカの社会学者、エスノメソドロジーの創始者)は、まったく別の角度からこの問題を考察している。ガーフィンケルによれば、日常的な社会生活において、人びとは背後期待(あるいは背後理解)と呼ばれる解釈図表式をもちいている。この背後期待によって、現実は人びとにとってなじみ深いものとして認識される。また背後期待は、安定的に自明化されているために、人びとは明確に語ることができないにもかかわらず、道徳的に必然的な性格を帯びており、それが逸脱によって可視化され、揺さぶられると、当惑や不安から憤慨にいたるまで、さまざまな反応を呼び起こす。このことを明らかにするために、ガーフィンケルは違背実験という今なら研究倫理上おいそれとは認められない実験を行った。たとえば、自宅に帰った学生が下宿人のようにふるまって(つまり日常的な予期を逸脱して)、家族の反応を観察するという実験がそれである。家族は、ふだんとはまったく違う学生の行動に対して、調子がおかしくなったのではないかと戸惑って心配したり、自分たちをからかっているのではないかと怒ったりする。それによってはじめて、家族生活における日常的に自明視された背後期待が浮かび上がってくる、というわけである(Garfinkel 1967: Chap.1)。
おそらく、実験の意図表が明かされると、やがて家族の動揺はおさまり、元のような状態に戻って、それまでの背後期待は維持されるだろう。シュッツの言葉をかりれば、家族は自然的態度のエポケーに戻る。だが、思わぬ逸脱によって自明性が揺さぶられた背後期待は、道徳的には依然として必然的なものとして要請されるかもしれないが、社会学的にはもはや必然的ではない(つまりルーマンのいう偶発的な)ものであることが露呈した。意味構成の安定化、固定化、自明化は、絶対的な根拠をもった必然的なものではなく、偶発的なものにすぎない。それにもかかわらず、分節化され、時間化されたかたちで意味構成される世界は、一定の安定性を保っているように思われる。またそうでなければ、社会過程は混乱をきわめ、私たちは行為の根拠を失ってしまうだろう。このパラドキシカルな事態を確認して、ルーマンの意味構成にかんする考察の一応の帰結としたい。
参考文献
Garfinkel, Harold, 1967, Studies in Ethnomethodology, Polity Press
Habermas, Jürgen, 1981, Theorie des kommunikativen Handelns, Suhrkamp(河上倫逸・M.フーブリヒト・平井俊彦他訳『コミュニケイション的行為の理論』上・中・下, 未來社, 1985-1987年)
Luhmann, Niklas, 1981, Soziologische Aufklärung 3, Westdeutscher Verlag
Luhmann, Niklas, 1984, Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeine Theorie, Suhrkamp Verlag(佐藤勉監訳, 『社会システム理論』上・下, 恒星社厚生閣, 1993-1995年/馬場靖雄訳『社会システム:或る普遍的理論の要綱』上・下, 勁草書房, 2020年)
Luhmann, Niklas, 1990, Soziologische Aufklärung 5, Westdeutscher Verlag
中岡成文, 1998, 「差異」『哲学・思想事典』岩波書店: 563
野林正路, 1986, 『意味をつむぐ人びと』海鳴社
Parsons, Talcott, 1951, The Social System, Free Press(佐藤勉訳『社会体系論』青木書店, 1974年)
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Schütz, Alfred, 1932, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer(佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成:理解社会学入門』(改訳版), 木鐸社, 2006年)
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