不屈の「ブレックスメンタリティー」がバスケットボール界を熱くする!|宇都宮ブレックス
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藤本 光正MITSUMASA FUJIMOTO
株式会社栃木ブレックス
代表取締役社長小学生の時にバスケットボールに夢中になり、プロ選手を目指して高校でアメリカに留学。その後、早稲田大学人間科学部(現 スポーツ科学部)でスポーツビジネスの理論を学んだのち、株式会社リンクアンドモチベーションに入社。2007年、新卒1年目で「宇都宮ブレックス」の立ち上げに関わり、2016年、取締役副社長に就任。2018年にはグロービス経営大学院を修了(MBA取得)し、2020年に代表取締役社長に就任。現在もバスケットボール界により貢献すべく奮闘中。
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林 幸弘YUKIHIRO HAYASHI
株式会社リンクアンドモチベーション
モチベーションエンジニアリング研究所 上席研究員
「THE MEANING OF WORK」編集長
早稲田大学政治経済学部卒業。2004年、株式会社リンクアンドモチベーション入社。組織変革コンサルティングに従事。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所の招聘研究員として、日本で働く外国籍従業員のエンゲージメントやマネジメントなどについて研究。現在は、リンクアンドモチベーション内のR&Dに従事。経営と現場をつなぐ「知の創造」を行い、世の中に新しい文脈づくりを模索している。
かつては“プロスポーツ不毛の地”といわれていた栃木県をホームタウンに創設された、プロバスケットボールチーム「宇都宮ブレックス」。今ではB.LEAGUEを代表する強豪チームへと成長した。創設から今日まで支えてきた藤本社長がその飛躍の原動力とチームへの想いとブレークスルーを語る。
アメリカ留学で感じた「スポーツ文化」
林
今やB.LEAGUE の強豪チームとなった「宇都宮ブレックス」。まずは、藤本さんがスポーツビジネスに身を投じることになったきっかけをお聞かせください。 |
藤本
原点にあるのは、「バスケットボールをメジャーにしたい」という想いです。私自身、小学生からバスケットボールを始めたのですが、「これほど面白いスポーツはない!」と夢中になっていました。そこで、できれば、バスケットボールでご飯を食べたいと思い、プロ選手を目指し、高校時代にはアメリカに留学しました。留学時代に体感できたことは、アメリカでは、本当にバスケが生活に根付いているということ。NBAの試合が開催された翌日には、「昨日のプレーすごかったな」なんて、その話題で持ちきりになる。一競技の枠を超えて、もはや文化と呼べるレベル。その体験があったからこそ、日本に帰ってきた後のショックが大きかった。こんなに面白いスポーツなのに、プロリーグもなければ、関心を持っている人もほとんどいませんでしたから。そのショックがきっかけで、「バスケをメジャーにしたい」という想いを抱きはじめました。 |
林
当時の若者が抱いていた将来の夢や目標は、「○○になりたい」といったように、職業を指すことが一般的でした。実現したいことを掲げていて、しかもそのスケールが大きい。すごいことですよ。帰国後は、早稲田大学のスポーツ科学部に進学されるなど、明確な理由が感じられますね。 |
藤本
私は、選手としては無理でしたが、バスケをメジャーにすることから逆算して、自分がどのような道を進むべきかと考えていました。そこで、リンクアンドモチベーションに入社し、まずはビジネスパーソンとしての基礎を固めようと思いました。ところが、入社してすぐのタイミングで、同社が栃木でバスケチームを設立することが決まり、私も栃木へ行くように命じられました。ものすごい運と縁ですよね。たまたま入社した会社が、たまたまバスケットボールチームを持つことになったという(笑)。 |
林
まずはビジネスパーソンとしての基礎を固めたいと考えていたそうですが、いきなりそのチャンスが生まれた。その話を受けた時の心境はどのようなものだったのでしょうか。 |
藤本
まだ、何もできない自分がそこに行って役に立てるのか。やはり、一抹の不安はありましたよ。けれど、当時の上司が背中を押してくれたんです。「基礎をつくると言うが、やらなきゃいけない環境や特別な役割に身を置くことで、人はそこに追いつこうと成長するものだ」と。やりたいことに挑めるチャンスがあるのなら、そこでもがいて、成長しろということですね。そのひと言でモヤモヤしていたものが一瞬で晴れました。 |
その瞬間、涙があふれた。
林
そこから、縁もゆかりもない栃木県へ行かれるわけですね。当時は“プロスポーツ不毛の地”などともいわれていました。 |
藤本
そうですね。今でこそ、地域の企業やメディアをはじめ、熱心に応援していただいていますが、当時の反応はイマイチでした。創設前、地域の企業など関係各所を訪問し、「チームをつくります、応援してください。ご支援をお願いします」とご挨拶したのですが、誰もが後ろ向きなんですよ。「プロスポーツという土地柄じゃないよ」「やめておいたら?」。いただくのはそんな言葉ばかりでした。地元のバスケットボール協会の方ですら、「栃木じゃムリだと思うよ……」と懐疑的な見方でしたからね(笑)。 |
林
なるほど。では、チーム創設の際には、かなりの苦労があったのでしょうね。 |
藤本
どれほど逆風だったとしても、任されたからには成功させる。絶対にやりきる覚悟を持っていましたからね。苦労がなかったとは言いませんが、楽しかったですよ、ゼロから1をつくっていける仕事はそう多くの人が経験できることではないので。選手を集めたり、チーム名を決めたり、ホームページを作ったり、マスコットの「ブレッキー」が誕生したり……。カタチのないものがカタチになっていくワクワク感は、なかなか味わえるものではありません。 |
林
当時、最も印象に残っていることは何ですか? |
藤本
創設1年目の開幕戦ですね。2千人超のファンがアリーナを満員にする。その光景を見た瞬間、思わず涙があふれてきました。まだ、試合も始まっていないのに、です。「バスケをメジャーにしたい」という想いをもって走り続けて、「栃木では無理」と言われた中でも、これだけの人の支持を集めることができたことで、「絶対に日本でもバスケをもっとメジャーにできる」と希望を持ったからです。 |
田臥選手獲得。決め手は営業力?!
林
プロチームとして、第一歩を踏み出した「宇都宮ブレックス」。チームの歴史を振り返った時に、田臥勇太選手の獲得は大きなブレークスルーであったと思います。 |
藤本
そうですね。私たちは頂点を目指し続けるチームであろうと考えていましたから、日本最高のプレイヤーを獲得したかった。当時、NBAに挑戦し続ける田臥選手は圧倒的な存在として、認知されていました。ただ、彼の目標を考えると、日本に帰ってくるとは誰も思っていないわけです。それもあって、オファーを出すチームはどこもなかったんですよ。「絶対に来てくれるわけない」とね。 |
林
にもかかわらず、「ブレックス」は動いたと。 |
藤本
「ブレックス」というチーム名は、「BREAK THROUGH(現状を打破する)」が由来。常識にとらわれないことが価値観なんです。無理そうに見えることでも、アクションは起こせるよね、と。とはいえ、現実は甘くない。代理人に連絡してみると「田臥はアメリカで修行中なので、これ以上、連絡もらっても何もお話はできないです」と。 |
林
なんと、一度は断られていた! |
藤本
はい。でも、あきらめませんでした。営業でも、恋愛でもそうですが、一度断られたからといって、可能性は0%ではありません。ならば、もうアメリカに行ってしまおうと。何のあてもなく、航空券のチケットを買って、現地へ飛びました。そして、代理人に連絡を取り、「近くにいるので、チームの紹介だけでもさせてください」とお願いしたんです。代理人も仕方なさそうに「10分くらいなら」とアポイントを承諾してくれました。場所はサンタモニカのホテルのロビー。私たちがどのようなチームを目指しているのか、日本のバスケットボール界の未来をどうしたいのか。そして、そのために田臥選手の存在が絶対に必要であることを伝えました。気がつけば、3時間近く話し込んでいました。 |
林
代理人の方も、藤本さんの熱を感じたのでしょうね。 |
藤本
その3ヵ月後に、「今季のアメリカでのチャレンジは中断することになった。なので田臥にオファーを出してほしい」と連絡がありました。即座にオファーを出すと、その3日後位に田臥選手が帰国し、入団会見を行うことに。田臥選手も、マスコミからの「なぜ、栃木に?」という質問に対して、「熱心に誘ってくれたから」と答えてくれました。何度、思い返しても、ありがたいことですよね。「ブレックス」のカルチャーを築いてくれたのは、間違いなく田臥選手ですし、今日のバスケットボール界の発展も彼なしではあり得なかったと思っています。 |
林
勝算などは考えずに、アメリカへ飛んだ。そこに本気を感じました。 |
藤本
営業でもよくありますよね。「近くに寄ったから、来ちゃいました」みたいなシーンが(笑)。それと同じですが、私としては想いを行動で示したいと思っていたんです。どれだけ「現状を打破する」「日本一を目指す」「田臥選手が必要」と言葉に出しても、行動が伴わなければ、なんの意味もない。言っていることは立派なのに行動しない。そうなるのだけは、絶対にイヤなんです。 |
チームを、経営を、エンパワーメントで変える。
林
田臥選手という支柱を得た「ブレックス」は、JBL(日本バスケットボールリーグ)の2009-2010シーズンで初優勝。このまま順風満帆に行くかと思いきや、山あり谷ありの苦しい時期を迎えます。ここから脱却するうえで、どのようなブレークスルーがあったのでしょうか。 |
藤本
2010年にリーグ優勝できたのですが、そこからチームの成績も下がってしまったり、2011年の東日本大震災によって、シーズンが打ち切りになってしまったり、経営も厳しい状況でした。その中で、ターニングポイントとなったのが2013年のシーズンです。経営面では、長らくチームを牽引してくれていた当時の社長である山谷拓志さんが一線を退くことになり、絶対的なリーダーがいなくなってしまった。そのため、私たちは組織を変えなくてはいけなかったんです。「この人についていけば、間違いない」という組織から、「権限を委譲することで、一人ひとりが考え、挑戦を楽しみ、責任を持って行動する」組織へ。それが段々とうまく機能してきたことが大きかったと思います。 |
林
経営面と同じように、チームでも若返りがありましたね。 |
藤本
はい。渡邉裕規選手、遠藤祐亮選手、ライアン・ロシター選手らが加入してきたのが、この頃でした。当時、チームの状況としてはどん底で「もう上がるしかない」という状況でもあったので、現場と経営が一体となって、若手主体のチームが成長していくストーリーをつくろうと考えていました。 |
林
みんなで変わろう、頂点を目指そうという時期だったのですね。 |
藤本
キーワードとしては、いわゆるエンパワーメントですね。そして、実際にここからの数年間で、選手やスタッフが大きく成長し、「ブレックス」というチームのカルチャーが浮かび上がってくることになるんです。 |
「ブレックスメンタリティー」の共鳴。
林
チームの若返りからつないだ、新たなストーリーが「ブレックス」のカルチャーを浮き彫りにしていったとのお話がありました。これが、いわゆる「BREX MENTALITY(ブレックスメンタリティー)」と呼ばれる、チームの指針になるわけですね。 |
藤本
そうですね。この言葉は、2017-2018シーズンのチームスローガンにも掲げました。「ブレックス」のDNAや哲学とも言える不変の精神性は、「Break Throughの精神」「常に新しいことにチャレンジし、どんな困難も必ず乗り越えようとする姿勢」「BasketballのREX(ラテン語で“王者”の意味)を目指し続けるという意思」「個ではなくチーム全員で戦う」「最後まで諦めずに戦う」「ディフェンスやルーズボールなど、泥臭いプレーを大切にする」「ファンや地域を大切にし、一緒に戦っていくという“BREX NATION”の考え方」・・・などです。「ブレックスと言えば○○」を考え、組織が自然に培ってきたカルチャーを研ぎ澄ませていく中で、さまざまな考え方が明文化されました。「これぞ、ブレックス」という、チームの“らしさ”を永続的なものにしようと、なんとなくの暗黙知だったものをしっかりと文字にしました。その結果もあってか、新しく加入する選手もブレックスに加入するとそのメンタリティーを抱き、行動で示してくれるようになりました。例えば、華やかで攻撃的だった選手も、加入後はディフェンスやルーズボールを懸命に追うようになったりと。 |
林
このチームとしての哲学・ビジョンは、どうやって明文化していったのでしょうか。 |
藤本
こちらから強制した考えではなく、自然とチームに浸透していたものをカタチにしたイメージです。だから、浸透も早かった。そもそも、「ブレックスメンタリティー」と名づけていますが、この中身の多くは、田臥選手が背中で示し続けてくれたものなんです。それが多くの選手の心に響き、浸透し、「ブレックス」のカルチャーとして年々と浸透していました。それを言葉にした形です。その考え方は、ファンの皆さまにもしっかり伝わっているんです。粘り強くディフェンスをして、24秒のバイオレーションを取った時。そして、気迫あふれるプレーで、ルーズボールをマイボールにした時。ブレックスのファンは、華やかなダンクよりも、そうしたプレーに大きな声援を送ってくれます。これは他のチームではなかなか見られないことだと思います。 |
林
ファンの皆さまもチームの持つメンタリティーに共感してくれている。とても素晴らしいことですね。 |
藤本
先日、今季から入団したブランドン・ジャワト選手が故障期間を経て、初ゴールをフリースローで決めた試合があったのですが、その得点シーンでチームメイト全員が喜びを爆発させると共に、SNSでファンの方々からかなりの数のコメントが寄せられ、いわゆるバズが起こりました。途中出場した選手のたった1ゴールでここまで盛り上がりを見せてくれたのも、「個ではなくチーム全員で戦う」というブレックスメンタリティーがファンの方々にも浸透し、共感いただいているからこそだと思います。 |
夢の続き。さらなるチャレンジへ。
林
藤本さんの話を聞いていると、スポーツが持つ感動の力を感じますね。 |
藤本
これほど見る人の心を動かすコンテンツはないと思います。映画や音楽にも素晴らしい力がありますが、スポーツは生身の人間による筋書きのないドラマ。日常生活で、ここまで感情を表に出せる機会はなかなかないと思います。コロナ禍において、スポーツはいち早く「不要不急のもの」とされてしまいました。もちろん、感染拡大を防ぐうえでは、必要な措置であったとは思います。けれど、人が人らしく生きるために、これほど必要不可欠なものはないと私は思っていますよ。ブレックスとしては、ブレックスメンタリティーを貫き続けることで、一人でも多くの方に感動や勇気を届けられるようなチームであり続けたいと思っています。勝った負けたも重要ですし、チームの売上規模を拡大していくことも重要ですが、それ以上に、そういった感動や勇気を与えるというスポーツの持つ価値をしっかりと示していくことが、スポーツやバスケの存在意義を高めるために最も重要だと思っています。 |
林
プロスポーツチームの経営に携わるうえで、藤本さんが大切にしていることは何ですか? |
藤本
これは、ブレークスルーから派生したことですが、常に向上心を忘れないことです。どんなに経営がうまくいっていても、現状に満足しないように心がけています。集客やファンサービス一つとっても、このままでいいということはありません。もっとよくできるはず。そう信じて、常に伸びしろを探すようにしています。今シーズンのスローガンは「BEYOND」。成長を止めることなく、自分たちの過去を越えていきたいと考えています。 |
林
今年、藤本さんはB.LEAGUEの理事にも選出されました。ご自身の夢を実現する、新たなチャレンジになると思います。最後に、今後の抱負をお聞かせください。 |
藤本
B.LEAGUEの理事会はリーグの舵取り役であり、最高意思決定機関でもあります。日本のバスケットボール界により貢献できる機会を与えていただきました。野球やサッカーのように、バスケットボールをメジャーにすること。そして、NBAに続く、世界2位のリーグを目指すこと。その目標に向けて全部力を尽くして、アメリカで体感してきたような、「バスケを文化に」していきたいと思います。 |