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個人と組織の同時発展を求めて

個人と組織の同時発展を求めて

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  • 磯村 和人

    磯村 和人Kazuhito Isomura
    中央大学 理工学部ビジネスデータサイエンス学科教授

    京都大学経済学部卒業、京都大学経済学研究科修士課程修了、京都大学経済学研究科博士課程単位取得退学、京都大学博士(経済学)。主著に、Organization Theory by Chester Barnard: An Introduction (Springer, 2020年)、『戦略モデルをデザインする』(日本公認会計士協会出版局、2018年)、『組織と権威』(文眞堂、2000年)がある。

前回、バーナード理論が生み出された背景として、バーナードのパーソナリティとキャリア形成プロセスを辿った。それでは、バーナードのキャリア形成の中心にあったAT&Tはどのような企業グループを形成していたのだろうか。また、バーナードは、組織とマネジメントに関する考え方を深める上で、実際にどのような経営課題に取り組んだのだろうか。本シリーズでは、バーナード研究の第一人者である磯村和人教授によるOrganization Theory by Chester Barnard: An IntroductionとManagement Theory by Chester Barnard: An Introductionから、バーナードが経営者としての経験を通じてどのような考えを熟成させたのか、その初期の経営思想に迫る。

ベル電話システムについて

バーナードは、1909年にハーバード大学を中退すると、ギフォードを通じてAT&T外国統計課翻訳係として採用された。その後、1948年にニュージャージー電話会社会長を退職するまで、39年間、AT&Tを中心とする企業グループであるベル電話システムで働いている。したがって、ベル電話システムがどのような企業グループであるのか、その基本的なことを知ることは、バーナード理論を理解する上で不可欠な情報となるだろう。

図1:ベル電話システム
図1:ベル電話システム

図1のように、ベル電話システムは、大きく4つの会社と研究所によって構成される企業グループである(飯野, 1978, 1979; Page, 1941)。具体的には、アメリカ電信電話会社(以下、AT&T)、ウェスタン・エレクトリック会社(以下、WE)、電話事業会社、ベル電話研究所である。AT&Tは、長距離通話を運営する部門とベル電話システムの持株会社ないし親会社の性格をもつ。これに対して、実際の電話事業は、各地域に設立されている電話事業会社によって行われる。バーナードが21年間にわたり社長を務めたニュージャージー電話会社はこれに当たり、1941年当時で従業員数は約11,000人であり、事業会社のなかでは中位に位置する(Page, 1941)。また、ベル電話システムは、M&Aによって電話機器メーカーであるWEを傘下におさめている。WEは、人間関係論のグループが実施したホーソン実験でよく知られる。さらに、ベル電話研究所は、研究開発やシステム・エンジニアリングを一手に引き受けている。トランジスタの発明や通信衛星などの開発で知られ、多くの特許をもち、ノーベル受賞者を数多く生み出している。

Brooks (1975)は、AT&Tの企業文化を以下のように述べている。服装や態度は保守的で控えめであるが、古臭くはない。ネクタイは必ずするが、シャツは白とは限らない。ネクタイの幅は狭いが、地味な色とは限らない。内部昇進を基本とし、ローテーション人事が採用される。スキャンダルはなく、趣味はゴルフを楽しむという会社であるという。

バーナードは、就職当初は、AT&Tの全社スタッフ部門で働き、その後、事業会社であるペンシルベニア電話会社、ニュージャージー電話会社でラインマネジャーとして働いた。ニュージャージー電話会社の株式はAT&Tによって100%所有され、営業については分権化され、親会社の指示を受けることはない。しかし、AT&Tにとって中心的な役割である資金調達とそれに関連する配当政策、国有化や独占禁止法などに対する対応については、事業会社は関わることはない。

したがって、事業会社における社長としての業務は、内部のマネジメントが中心であったと考えられる。実際、AT&Tの全社スタッフ部門で働いているときにバーナードが執筆したものは、外部環境への対応を中心としているのに対して、ニュージャージー電話会社社長になって以降は、次第にそのフォーカスは組織のマネジメントにシフトしている。

AT&Tはどのように発展を遂げたのか

AT&Tはどのように発展を遂げたのか

Brooks (1975)に基づいて、アメリカを代表する大企業であるAT&Tという企業がどのように発展を遂げてきたのか、特に、バーナードが勤務していた1909年から1948年までの間、AT&Tがどのような課題に直面していたのかを見ていく。AT&Tは、電話サービスをアメリカ国内に行き渡らす上で大きな役割を果たした。電話事業を展開するリーディングカンパニーであり、ときに国有化、また、ときにグループの分割というように、つねに独占禁止法への対処を強いられた。ベル電話システムが直面した経営課題は、表1のようにまとめることができるだろう。

表1:ベル電話システムが取り組んだ経営課題
表1:ベル電話システムが取り組んだ経営課題

事業基盤の構築と特許闘争

バーナードの生い立ちとパーソナリティの形成

AT&Tの歴史は、1875年にグラハム・ベルが電話を発明し、電信の送信機と受信機に関する特許を申請し、発行することから始まった。1876年にベルの特許「電信機の改良」 が認められ、1877年に会社が設立された。その後、競合他社もぞくぞくと電話事業に参入し、会社設立当初は、特許をめぐる法廷闘争が激しく行われた。また、会社設立当初の主要な競合他社として、1856年に設立された電信会社ウェスタン・ユニオン・テレグラフがあり、同社によって、AT&Tは株価の操作や競争で攻勢を仕かけられ、何度も危機的な状況に追い込まれた。

しかし、1878年にユニオン・パシフィコ社で総務部長であったヴェイルが招聘されると、情勢は大きく変化した。ボストン資本家であるフォーブスが社長になり、1879年ウェスタン・ユニオンとの和解を図り、1881年にはアメリカン・ベル電話会社と名称変更し、1881年にはWEの買収に成功した。1885年に資金調達目的でAT&Tが親会社、持株会社として設立された。

このように、アメリカン・ベル電話会社は、1885年までに基本的骨組みを確立し、ライセンス契約によってあらゆる地域に電話会社を設立していった。1880年代では、技術進歩を進め、長距離通話サービスを確立し、急速に成長を図った。ヴェイルは、特許切れの前に、効率のよい長距離ネットワークを構築しようとした。AT&Tは、早くから長距離通話網を確立する上で重要な役割を果たした。特許に守られている間に、ヴェイルが長距離網の整備を進め、特許に関する法廷訴訟は600件を超えたものの、すべての訴訟に勝利している。

二重システムから独占へ

二重システムから独占へ

1893年に特許が切れると、ベル系と独立系が乱立する二重システムの時代に突入した。電話事業の草創期はまだまだ技術的に未熟であり、AT&Tは研究開発を重視し、新技術の導入を強力に推進し、サービスを改善することで競争に打ち勝とうとした。1913年にWEは真空管の開発に成功し、技術開発の成果を活用し、ラジオ放送、トーキー映画、テレビ、無線電話、レーダー装置、ミサイル、防衛システムに及ぶまで事業展開できる基盤を構築した。さらに、1925年にはベル電話研究所を設立し、一貫して研究開発に力を注いだ。

ベル系は独立系に対抗するために、人口の多い都市部を中心に設備投資を行うとともに、富裕層をターゲットにした。これに対して、独立系の方は、電話網が設立されていないエリアに設備投資し、都市部に参入する場合には、低価格を武器にした。独立系は、AT&Tに対抗するために、5,000社以上で事業連合を形成した。ベル系は都市部への攻勢に対しては、サービスを改善し、価格を下げることで対抗した。資金調達を容易にするために、1899年にはAT&Tを持株会社化している。ベル系の主要な対抗策としては、①値下げ競争、②銀行からの圧力(信用貸しをしない)、③許可に対する政治的圧力、④独立系製造会社の買収によって交換機を供給させない、⑤相互接続の拒否などの方法が採用されている。

しかし、1907年には、AT&Tが財政危機に見舞われると、銀行の管理下に入った。資本家間の争いが起きるが、最終的にはJPモルガンが勝利した。1907年には、いったん辞職していたヴェイルが社長に呼び戻され、JPモルガンは会長に就任した。ヴェイルは、特許権の告訴を続けることで、独占的地位の確保を図り、低価格で競争を挑む独立系に対して電話料金の引き下げで対抗した。

ヴェイルは、JPモルガンの後ろ盾の下で、増資を行い、財政を立て直し、競争力強化のために研究開発を進め、経営体制については、実力主義を採用し、強力なスタッフ陣を構築した。経費を削減し、秘密主義と決別し、利潤よりもサービスという経営理念を確立し、競争と独占の両立を図った。ヴェイルは、政府に独占を認めさせ、その代わりに政府による規制を受け入れることに同意した。その後、実際、州委員会、あるいは、州際通商委員会によって電話料金の規制が行われるようになった。

独占から国有化へ

独占から国有化へ

AT&Tは、政府からの規制を受け入れることで、独占が認められた。しかし、一難去ってまた一難で、今度は、次第に、国有化への圧力が高まった。こうした動きをけん制するために、ヴェイルは、キングスベリー協約を受け入れ、妥協の道を探った。電信事業を切り離し、電話事業へと特化し、州際通商委員会の承認なしでは合併買収しないことを受け入れた。また、独立系に対して相互接続を認め、回線利用サービスを確保できるようにすることで、公正な競争を行っていることを認めさせようとした。こうした対策は効を奏したが、大統領が共和党から民主党に変わると、状況は一変する。

1912年に民主党のウィルソン政権が成立すると、1913年前後から、電話の公共性を考慮し、国有化が議会で議論されるようになった。実際、ヨーロッパ諸国では電話事業は国有化されていて、アメリカだけが民間企業による運営であった。1914年に第1次世界大戦が勃発すると、1917年にアメリカも参戦した。アメリカ軍は、フランスにベル電話システムの職員14,000人を通信部隊として派遣した。戦争遂行上、電話通信網はその重要性が認識された。1917年に鉄道が国有化され、遂に、1918年には、電話も国有化された。

1918年に大統領布告が出され、価格決定力、通信設備の接収が可能となった。しかし、1918年に国有化されたにもかかわらず、値上げを実施しなければならない情勢に陥ると、国民の間で大きな失望が生まれた。国有化によって期待された料金の値下げどころか、20%の値上げが行われ、国有化は解除されることになった。1919年に、民間への返還が議会で決議され、1年で民営に復帰することができた。これによって、国有化は一挙に退潮し、民間でも公共の利益を守ることができることが認識された。この時期、バーナードは、会社を代表し、国有化に反論する大部の文書を執筆している(Barnard, 1919)。

その後、1920年代には、政府によって独占が公認され、グラハム条例によって合併買収が認められた。しかし、実際には、独占が簡単に実現されたわけではなく、1920年代では独立系の競合他社は8,500以上存在し、1945年になり、完全に一本化された。

1920年代は、AT&Tにとって比較的に平穏な時代で、労働組合運動も低調であった。AT&Tの温情主義もあり、労働条件、年金など、大幅な改善が進んだ。1925年に社長交代があり、セイヤーからギフォードの時代に入った。ギフォードは、1925年から1948年まで長期に社長を務めた。ギフォードは、財務担当副社長としてクーパーを、部外折衝担当副社長として大学の級友であるページを指名し、経営体制を固めた。1920年代まで銀行支配が続いた。しかし、1920年代は、個人株主が増大し、1920年には14万人、1921年には18万6千人、1922年には25万人というように増加が進み、この流れは続いていく。個人株主の増加によって、所有と経営の分離が急速に進んだ。転換社債、新株発行によってマーケットから資金調達が図られ、安定配当を行った。何十万人もの個人株主によって構成され、最大株主でも1%以下の所有となり、専門経営者による支配が確立された。

世界大恐慌

世界大恐慌

しかし、1929年に世界大恐慌が起きると、状況はまたもや大きく変わった。大恐慌の勃発当初は、緊急事態に対応するために、電話の需要は一時的に増加した。しかし、時期のずれを伴って、1931年から減少に転じ、1932年に10%のマイナス成長を経験し、経営危機を迎えた。WEは大幅な赤字に陥り、80%のレイオフを実施した。大恐慌のなかで、政府による規制は値上げを抑えるものであったために、結果としてしばらく値下げは行われず、1933年に法律や条例が改正されることで、ようやく値下げが可能になった。

大恐慌の時代にも、AT&Tは安定配当政策を変更せず、1932年から1935年まで1株当たりの純利益は9ドルを下回るものの、毎年、9ドル配当を実施し、キャッシュを取り崩した。1936年からようやく業績は好転し、回復した。しかし、大恐慌のダメージは大きく、電話回線は5,000万から3,000万にまで減少した。

AT&Tは大恐慌を乗り越えるために様々な取り組みを行った。1930年から1935年まで労働日数を6日から5日に削減し、賃金の削減を図り、自動交換機を導入し、交換手を中心に人員の削減を図った。1929年に自動交換機の導入率は26%であったが、1930年末には56%になった。自動交換機を導入すると人手は6分の1になるものの、交換手の退職後の採用を行わないことで、人員削減を進めた。基本的に、女性交換手の離職率は高く、幸い、労働問題には発展しなかった。

労働組合の形成

労働組合の形成

1930年代は労働法の改正があり、労働組合への対応も求められるようになった。1935年にワグナー法の成立が大きなインパクトをもたらし、企業内組合から産業別組合へと転換された。1939年に全米電話労働者連盟(NFTW)が成立し、加盟者は92,000人になった。その後、1946年まで全米通信労働者連盟(CWA)となり、その数は217,500人を数えるようになった。

大恐慌の余波が収まると、今度は第二次大戦への対応を求められた。実際、1941年に入ると、戦時体制に入り、防空設備としてレーダーなど、兵器の研究、開発が中心になり、1942年から1944年は、軍需生産の割合は54%から85%まで上昇した。その後、戦争が終結に向かうと、労働争議が頻発するようになった。1944年、1945年にはストが行われ、1946年には30%の賃上げ要求が行われた。

第2次大戦が終結すると、長期に社長を務めたギフォードの経営体制も終焉を迎えつつあった。ギフォードの社長時代には、経営陣に変化が起きていて、理論系から実務系が強くなっていた。また、所有もボストン系資本家から銀行支配を経て、完全に経営者支配にシフトした。1948年にギフォードの後継をめぐって、AT&Tで初めて内部対立が起こった。この時期、AT&Tは苦しい状況にあった。株価が低迷し、マーケットで資金調達を図れずに、銀行借り入れに頼り、金利負担が重くのしかかった。他方で、電話料金は引き上げることもできず、自己資本比率が大きく低下していた。値上げを断行し、収益改善を図ることで財務均衡を目指す候補者が社長に就任することが求められていた。

バーナード初期における経営思想

バーナード初期における経営思想

バーナードは、1938年に『経営者の役割』を著したが、それまでにも多くの講演とそれらの原稿を残している。特に、『経営者の役割』以前では、全社スタッフ部門で働いていたこともあり、外部環境の経営課題に対して、AT&Tの対応に関連する論稿をいくつも出している。AT&Tの歴史とつき合わせながら、それらを検討することで、バーナード初期の経営思想を明らかにすることができるだろう。

(1)組織実践における事業原理

Barnard (1922)では、全社スタッフとしての経験を踏まえて、組織実践における事業原理として「事業はつねに進歩しなければならない」という考え方を主張している。電話事業は国営であろうが、民営であろうが、商業サービスとして独立採算であることが期待される。しかし、政府が運営すると、ビジネスとして成功せず、独立採算を維持できないか、十分なサービスを提供できないことで失敗する。これに対して、アメリカでは電話事業は商業サービスとして供給され、しかもビジネスとしても成功している。

また、バーナードは、アメリカの電話事業はサービスが事業原理に沿うように経営されていると指摘している。電話事業は、組織の規模、公的規制を受けること、技術的な理由で専門化が必要なこと、ユニバーサルなサービスの必要性など、様々な要因を考慮しなければならないサービスなので、その事業の本質があいまいになり、事業原理を詳細に適用することが難しくなる。

しかし、いかなるビジネスにおいても最も重要な原理は「ビジネスは一貫して進歩しなければならない」ということであり、進歩は現実的なものでなければならない。つまり、製品やサービスはつねに改善され、価格は引き下げられなければならない。実際、ベル電話システムでは、当初からこうした進歩が続けられ、サービスは改善され、価格は引き下げられてきた。

事業経営の本質的な問題は、この進歩をバランスよく、体系的に実現することにある。純利益が適切でないと、進歩はなく、結果として退歩が起きる。サービスは、公共に対する価値やコストを無視して改善されず、適切なサービスを犠牲にして、コストを削減することもできない。つねに状況を変化させ、適応を重ねることによってこれらの問題は解決される。目的はつねにサービスの価値を増大させ、技術的な問題を解決し、効率性を高めることでコストを削減することにある。

サービスを改善しつつ、同時に価格を下げるためには、事業を行うための機能的組織を作り、開発業務を集中化する必要がある。この2つの組織開発を実現することなしに、技術的、機能的な進歩を調整できない。機能的組織を改善するためには、3つの方向性がある。第1に部門間に協働的な態度を維持すること、第2に部門間の仕事を改善する方法を提供できる指揮命令を確立し、部門間の取り扱いを容易にするように部門における指揮命令を確立すること、第3に人材を異なる部門に異動させ、昇進させる慣行を開発することが挙げられる。第1は監督、教育、モラール、チームプレイに、第2は組織、権威、組織機構の編成に、第3は人材の資格と訓練に関わっている。キャリアパスは重要であり、異種交配を進める必要がある。専門的エキスパートであるとともに、組織全体を見渡すゼネラリストであることが重要になる。

以上のように、バーナードは、全社スタッフの立場から、事業の基本原理は進歩を図ることであると主張し、サービスを改善しつつ価格を引き下げるという事業原理を実現するには、機能的組織と開発業務を集中化できる組織を生み出し、そのために必要な人事慣行を確立し、人材育成を図る必要性を論じている。

(2)管理者の能力とその開発

Barnard (1922)では、継続的にサービスを改善し、価格を引き下げることで進歩を実現するために、部門間の連携を図ることができる機能別組織、そこで管理者の機能を果たす人材をどのように育成していくかが議論されていた。これを受けて、Barnard (1925)では、管理者の育成についてどのような能力が求められ、どのように開発するかをさらに詳細に検討されている。

バーナードは、ペンシルベニア州立大学ウォートンスクールと協力し、管理者を育成するための独自のカリキュラムを開発した。そのプログラムは、リベラルアーツを管理者に学習させるもので、彼らの見解や関心を広げることを目的としていた。もちろん、座学には限界があり、管理者の人材開発には、かなりの程度の資質が関係し、経験を通じて、知識と技能を習得する必要もある。ここで、バーナードは、管理者の能力とは成果を継続的に達成し、多くの人々の組織化された努力を確保するものと捉えている。

管理者の資格要件としては、以下の6つを挙げている。

1.成果を決定する能力

2.組織化する能力

3.表現する能力

4.協働を確保する能力

5.バランス

6.柔軟性


1から3までが管理者の資質に関係し、4から6までが経験を通じて習得されるものである。これらの能力を開発する方法としては、1、2、3については、一般的、特定された教育方法を活用することができる。1は分析能力であるので、技術に関する知識、技術的原則を学ぶことができ、必ずしも管理職につかなくても身に付けることができる知的能力である。2は、組織とは人的な力や活動を体系的に調整することであり、組織技術に関する知識は学習することができる。判断力や状況を評価する能力と組み合わせることが必要で、これらは経験を通じて学習される。3については、書く、話すという能力であり、知的能力であり、学習することが可能である。知識だけでは、管理能力を成り立たせることができないが、知的な能力は学習することができ、4、5、6については、基本的に経験を通じて身につけられる非知的な能力であるとしている。以上をまとめると、表2のようになる。

表2:管理者に求められる資格要件と開発方法
表2:管理者に求められる資格要件と開発方法

この論稿は、組織に対する理解を次第に深め、そのなかで求められる管理者の能力を直接的に議論している点で興味深く、組織化の能力を論じるなかで、バーナードが考える組織がどのようなものかを知ることもできる。全社スタッフ部門にあり、ライン組織の管理職に就く以前のバーナードが39歳のときに執筆した論稿であり、『経営者の役割』がどのように形成されるかを理解する上で、重要なものといえるだろう。

(3)安定的成長と事業統合

Barnard (1930)では、世界大恐慌に関するバーナードの基本的な見解が示されている。電話事業は、長期的な計画にしたがって設備投資を進めるべきにもかかわらず、大恐慌のようなことが起きると、すべてが動かなくなってしまう。状況に対応して予算がカットされ、状況がひどければ、大幅に予算がカットされる。

しかし、電話事業というのは、今すぐ必要ではなく、将来、必要になるものに投資し、つねに改善し、拡大するものである。計画的に投資を続けていれば、経済のクッションとして作用し、深みにはまらないようにする効果をもっている。したがって、公的利益という観点からいうと、安定性についても論じる必要がある。電話事業では、需要に先立って、設備を作る必要があり、少なくとも5年前から成長率を統計的に予測している。1929年には年率3%になったものの、通常、8%程度の成長を続け、基本的に直近の景気に左右されることなく、成長する。大きな設備投資を必要とする鉄道事業についても同じことがいえ、長期的な視点が求められる。

競争のメリットを生かす国家の方針や政策が必要であり、統合と安定化が推奨されるべきである。しかし、実際には、独占に対する抵抗がそれらを阻んでいる。独占は必ずしも悪ではないにもかかわらず、理由もなく嫌悪される。独占、買収、統合は、需要と供給をバランスさせ、安定化させる。また、独占は、景気が過熱しているときに抑え、生産能力が過剰に拡大しないように、不景気を防ぐことにもつながっている。

政府による伝統的な競争政策は、うまくいっておらず、手際も良くない。過剰に競争条件を制約することは適切ではないが、制約のない自由競争はゲーム化し、大惨事をもたらす。例えば、倒産を生み出し、失業者を犠牲にし、努力を浪費させ、バランスの悪い生産、社会全体への効率的な生産の分配を悪化させる。

経済が基本的に成長していれば、過剰生産ということはなく、効率的な製品の分配がされていないだけである。技術的失業は、機械の導入による失業である。例えば、自動交換システムの導入は、短期的に大きく労働を節約するわけではない。しかし、結果として、労働の節約は、実際には社会の利益になる。というのは、生産水準の向上が可能になり、購買力を高め、利益を増大させ、サービスを改善させるからである。産業の安定化が図られれば、雇用の流動化は改善される。したがって、基本的には、政府によって調整が図られるべきである。民間エイジェンシーとコンタクトをもち、州政府、連邦政府によって主導されれば、公共政策の柱になる。

企業統合の反対論者は、独占が効率性のインセンティブをもたないという。しかし、AT&Tにはインセンティブはあり、競合もある。実際、巨大な競争がある。もちろん、支配や統合も起きる。しかし、サービスは向上し、価格引き下げの圧力は働いている。企業の安定化は、物理的なもの以上のものを生み出す。

配当の安定が、資金調達を可能にする。経済成長に合わせて、巨大な設備が必要となる。産業の統合については、唯一の方法があるわけではない。進歩は、公共の福祉のためにならなければならず、そうでなければ、独占も失敗する。また、真の賃金は継続して上昇しなければならない。平均的な人間が必要とするものやサービスが買えるようにするものでなければならない。実際、賃金はこれ以上に上昇しているし、上げることは義務でもある。産業文明では、組織、機械、ツールの効率性に対応したマスマーケットがある。これらの原則が満たされる限り、賃金は問題になることなく、個人の利益と公共の福祉は両立する。計画の欠如よりは、安定を求めるべきであり、規制された独占は可能であり、知的な規制は機能する。

このように、バーナードは全社的なスタッフとして外部環境の分析として大恐慌に対する基本的見解を示している。また、独占を擁護し、それだけで悪ではなく、安定を生み出し、社会を効率的にし、賃金を上昇させ、公共の利益にも貢献することを論じている。バーナードは、AT&Tのような電話事業に取り組む会社は事業を安定的に行うことで、景気循環に対応し、経済全体にプラスに作用することを力強く主張している。

(4)人事関係における基本原理

AT&Tは、ワグナー法などの成立を受けて、労使関係、特に、労働組合との関係をどうするか、に取り組んでいた。そのなかで、すでに事業会社の経営者として10年近い経験を積み重ね、すでに49歳になっていたバーナードは、Barnard (1935)を発表し、表3のような人事関係における基本原理について論じている。

表3:人事関係における基本原理
表3:人事関係における基本原理

この論稿で、個人の成長、協働意志、福祉計画、経済的動機、取引と協働について、順序立てて検討している。まず、個人の成長についてであるが、歴史を振り返ると、個人の位置づけは不明確で、無視されやすかった。アメリカ独立戦争やフランス革命によって個人へ注意が払われるようになった。個人と全体は相互依存的であるけれども、労使関係において個人として扱われるよりも集団として取り扱われることが一般的であった。メイヨーによって、ようやく個人の能力、成長、心的状態が取り扱われ、人事政策や実践の中心になった。

バーナードは、一人の人間として、成長しようとする個人の意欲、個人の発達が人事業務の中心であると指摘する。個人を成長させることが第一義であるが、協働意志がその次に重要になる。協働意志とは、組織目的に向かって、協働するように促進することであり、そのためには、個人の意欲、願望、関心に注目する必要がある。これらを実現するためには、経営者、管理者の誠実さ、高潔さへの信頼が不可欠であり、気の利いたトリックや策略ではなく、正直さ、公正さが問われる。

続いて、福祉計画は、労働条件の改善に資することを論じている。しかし、お金で労働者を買収しても本当の協力を得ることはできず、良好な労使関係はお金では買うことができない。というのは、良好な労使関係は、公正で建設的なものであるからである。したがって、福祉は本質ではなく、枝葉末葉であり、温情主義は最低限にすべきで、賃金の代用物にはならないとしている。

経済的動機について言及しながら、実際には人々はこれ以外の動機で動かされていることを指摘する。威信、評判、哲学、立場、慈善的な関心、闘争心、計略への興味、摩擦の回避、技術的関心、野心、有意なことを成就させたい気持ち、従業員の尊敬を得たい願望、有名になりたい気持ち、有名になることへの想いなどの方が労働者の動機としては強く作用する。つまり、経済的動機は支配的ではありえず、ただ限定を加え、方向付けを行うものにすぎない。したがって、従業員についてもお金がすべてであると考えるべきではない。事業についても同様で、事業のドライバーは利潤動機ではなく、損失の恐れの方が重要であると述べている。

取引と協働については、団体交渉のように、集団取引にとって労使関係が改善されると考えられ、ワグナー法のような法整備も進められている。しかし、取引では、従業員の福祉と労使の本当の調和を獲得することができず、バーナードは、協働によってこそ、この目的を達成することができると主張している。取引には共通のプールがあり、分配されると考える。ゼロサムの競争になり、どれだけ取ることができるという発想になる。しかし、実際に、共通のプールは存在しない。有効性の増大によって生じるからである。価格をコストプラスで考えるが、価格を決めるのは消費者である。コストが価格以上になることもある。

取引という考え方は、協働的態度と健全な人事目的を基本的に対立させる。これに対して、協働は健全な人事慣行や結果の発展を促進する。ワグナー法は、団体交渉を正当化し、強制することにつながる。また、産業別組合は、中間的マネジャー層の機能や責任を無効化してしまう。

以上のように、この論稿では、個人の成長、協働意志が重要であり、福祉施策は枝葉末葉、個人の動機への理解を深めて、取引よりも協働を重視すべきであるとして、人事管理に関する基本的な考え方を提示している。個人と組織の対立と調和、そのなかでの個人の成長、個人の動機を論じながら基本的な人間観を示し、取引よりは協働という『経営者の役割』につながる考え方が形成されていることに注目する必要があるだろう。

経営者として成熟する

経営者として成熟する

バーナードは、ハーバードを中退後、1909年、23歳のときにAT&Tに就職し、1948年に退職するまで39年間という長きに渡って、同社で働いている。1909~1922年までの13年間は、全社のスタッフ部門で、1922~1948年までラインマネジャー、事業会社社長として働いている。この間、1938年に『経営者の役割』と1948年に『組織と管理』という2冊の著作を出版している(Barnard, 1938, 1948)。

したがって、1909~1948年までAT&Tという企業がどのような歴史を辿ってきたのか、その大きな流れを理解することは、バーナードがどのような仕事を経験し、組織とマネジメントの理論を形成する上でどのような影響を与えているかを考える大きな手掛かりになる。この期間、AT&Tは、ベル系と独立系が併存する二重システムから独占を志向し、競合他社と厳しく競争するなかで、独占を推し進めた。その結果、政府からの規制を受け、また、国有化という圧力をかけられた。1920年代に入ると、順調に独占化を進めたように見えるが、大恐慌に見舞われ、労働組合への対応を求められ、第二次世界大戦では戦時体制へのシフトなどを経験している。

この間に、講演等を通じて発表した4つの論稿を検討したが、バーナードがどのような仕事をし、どのように組織とマネジメントに関する考えを熟成されたかを垣間見ることができる。全社スタッフとして、経営理念、競争と独占、大恐慌、配当政策、などの課題について外部環境に対してどのように対応するか、を学び、その後、事業会社の社長として、人材開発、モチベーション、労使関係など、内部環境に対してどのように対応するか、組織とマネジメントへの考えを深めていることが理解できる。特に、事業会社の社長になってからは、その経営責任の重さからいかに個人と組織を同時発展させるか、日々、思索と実践を重ねてきたといえるだろう。

参考文献一覧

Barnard, C.I. (1919) An analysis of a speech of the Hon. D.J. Lewis comparing governmental and private telegraph and telephone utilities, Barnard Collection, Baker Library, Harvard Business School
Barnard, C.I. (1922) Business principles in organization practice, Bell Telephone Quarterly, 1, pp. 44-48
Barnard, C.I. (1925) The development of executive ability, Barnard Collection, Baker Library, Harvard Business School
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Barnard, C.I. (1935) Some principles and basic considerations in personnel relations, Barnard Collection, Baker Library, Harvard Business School
Barnard, C.I. (1938) The functions of the executive, Harvard University Press
Barnard, C.I. (1948) Organization and management, Harvard University Press
Brooks, J. (1975) Telephone: the first hundred years, Harper & Row (北原安定監訳『テレフォン』企画センター、1977年)
Page, A.W. (1941) The Bell Telephone System, Harper & Row
飯野春樹(1978)『バーナード研究』文眞堂
飯野春樹編(1979)『バーナード 経営者の役割』有斐閣

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